平沢津谷と「しんぼうどうざん」

栗木(八代市泉町)で聞いた五木村平沢津(ひらさわつ)の「しんぼうどうざん」の話が耳に残っていた。「しんぼうどうざん」とは、一体なにか。
梅雨に入ってすぐ、子別峠(こべっとう)を越えて平沢津谷に入渓した。急斜面を雑木につかまり、滑り落ちるようにして川岸まで下った。流れは意外とやさしいが、しばらく遡行すると、突然岩壁に挟まれた淵や小滝が現れる。

小滝や小渕が連続する平沢津谷

平沢津谷からの帰り、上流の椎葉集落で、「しんぼうどうざん」を知る老人と出会った。老人によると「しんぼうどうざん」とは新望銅山のことだという。
新望銅山は昭和9年に株式会社として発足。旧深田村(現あさぎり町)の岩屋銅山を高田商会(戦前の大手商社)から引き継いだ。そして、昭和13年からは平沢津谷でも採掘を開始、昭和17年か18年ごろまで存続したとされる。
平沢津谷の新望銅山には、鉱山事務所、社宅、飯場があり、椎葉集落にまだ電気が来ていない時代に、宮園(五木村)から電気を引いていた。「事務所前の広場で活動写真が映写されることがあって、地元の者も見に行ったことがある」という。
当時、椎葉集落の人たちも臨時の鉱夫として働くことがあったが、「朝鮮半島から来た人夫や女性の選鉱婦がたくさんいた。坑内は人が立って歩けるほどの広さで、発破にマイトを使っていた」。
削岩機で掘った鉱石はトロッコで搬出し、索道で尾根を越えて栗木に運んだ。さらに、瀬戸内海の四阪(しさか)島(愛媛県今治市)や契(ちぎり)島(広島県大崎上島町)まで運び、精錬していたとされる。
老人に聞いて、銅山跡地まで辿ってみた。土砂で埋まった鉱口の周りではウツギの白い花が満開となっていた。

新望鉱山跡に咲くウツギの花

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