宇那川と西郷軍の半助台場

西郷軍が人吉城下に入ったのは、明治10年(1877)4月28日のことである。人吉では、旧相良藩士を中心とした人吉一番隊(神瀬鹿三隊長)が結成され、川尻などで薩軍として戦っていた。人吉に到着した西郷隆盛は、永国寺に本陣を構え、人吉二番隊(菊池淡水小隊長)、人吉三番隊(相良淡海隊長)を編成する。
このころ、官軍側は、別働第二旅団と別働第四旅団が、万江(まえ)越道、照岳道、五木越道、五家荘越道、種山道、球磨川道、佐敷道の7つのルートで人吉への侵攻を目指していた。
人吉市内から山江村に入り、万江川沿いの県道17号線を上流へ向かった。柚木川内(ゆのきごうち)、屋形、小鶴、六沢(ろくそう)を過ぎると、宇那(うな)川との合流点吐合(はけあい)。吐合から宇那川沿いの道を尾寄崎(およりさき)へ遡った。

万江川から支流宇那川に入ると一気に谷が険しくなる

尾寄崎のヤマメ養殖場で西南戦争当時の言い伝えを聞いた。「横谷(尾寄崎から東側に登った集落跡)の麓に西郷軍が掘った『半助台場』という壕があった。だが、今は草に埋もれてしまい、見つけ出すのは難しいだろう」という。
官軍は万江越道と照岳道を併進する。このうち、万江越道では、肥後峠、榎峠、国見峠の3方面から万江川沿いに進み、水無と大河内を攻略している。結局、侵攻ルートからはずれた「半助台場」では戦闘は行われなかった。
宇那川から本流沿いの県道まで戻るころには、陽光もかなりやさしくなった。万江川沿いに下ると、川遊びの子どもたちの姿があった。

本流万江川は明るい陽光に満ちていた

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