飯干川と山人たちの端海野

栗木川に沿った舗装道路を上り、子別峠(こべっとう)に登り着くと空が大きく開き、彼方に五家荘から五木にかけての稜線が姿を現す。子別峠集落には洋ラン栽培のビニールハウスが並び、ハウスの中から人の話し声が聞こえる。
端海野(たんかいの)は子別峠から3キロmほど。端海野も子別峠も、戦後開拓によってできた集落である。子別峠は、平沢津など地元五木の人たちを中心に拓かれたが、端海野は地元以外からの入植者が多かったとされる。
端海野に入植が始まったのは昭和25年。戦地からの引き揚げ者などが開拓団募集に応じ、その人たちを中心に「栗ヶ丘開拓団」が結成される。
「栗ヶ丘」の名の由来は、端海野にヤマグリの大木が多かったことによる。「秋には五木の人たちが飯干川沿いに登ってきて、たくさんのヤマグリの実を背負って下って行った」という。また、端海野にはマツやブナなどの大木が残っていたため、飯干川沿いに木馬道(きんまみち)を築き、木材が搬出された。だが、十年ほどして「栗ケ丘開拓団」は解散、入植していた人たちも次々と山を去っている。

端海野から流れ下る飯干川

五木や端海野の人たちが行き来したという飯干川沿いの山道を歩いた。渓谷には端海野の高原から山水が集まり、その流れを広葉樹が覆い尽くしている。端海野から子別峠へ戻ると、峠でヨメナの群落が咲き乱れている。そのたくさんのヨメナに混じって、一株だけシラネセンキュウが花開いていた。

子別峠に咲くシラネセンキュウ

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