河俣川鹿路橋と木地師伝説

全国の山中を手挽き轆轤(ろくろ)とともに移動しながら、木の椀、盆などを製作する職人集団がいた。木地師(きじし)、あるいは轆轤師と呼ばれる人々である。伝説によると、木地師は、文徳天皇第一皇子の惟喬(これたか)親王(844~897)を始祖とし、近江国蛭谷(現在の滋賀県東近江市)を本拠地に全国に散らばったとされる。
木地師たちは良質な材料を求めて各地を渡り歩いた。そのため、木地師に因む地名が各地に残されている。木地屋、雉(きじ)谷、ロクロ谷、六呂山、六郎谷、六郎丸、六郎次山、鹿路(ろくろ)なども、木地師に由来すると考えられている。
旧東陽村(現八代市)河俣から大通 (おおとおり)峠を越えて五木村に繋がる県道がある。河俣から大通峠へ向かう途中、鹿路集落と座連(ざれ)集落の分岐点に、嘉永元年(1848)に竣工した石橋鹿路橋がある。

河俣川に架かる鹿路橋

鹿路集落で鹿路橋について尋ねてみた。「昭和30年代までバスは鹿路の石橋を渡っていた。ただ、幅が狭いために『架け出し』と言って、石橋の上に丸太を敷いて幅を広くしていた」という。現在のコンクリート橋が架けられたのは、昭和41年になってからである。
木地師のことも尋ねてみたが、「轆轤職人がここに来ていたかどうかは、地元でもわかっていない」という。だが「大通峠に自動車道が通じるまでは、五木から人が炭やお茶を背負って峠を下ってきていた。小川(現宇城市)まで荷物を運び、帰りにはコメを背負って大通峠を越えていた」と教えてくれた。
鹿路橋の脇に立つと、座連集落との別れ道にシャガの群落があり、ちょうど花が満開期を迎えていた。

咲き誇るシャガの花

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