森林鉄道と目丸の隧道跡

内大臣橋を左岸に渡り、津留(つる、現山都町)へ繋がる舗装道路を下ると、緑川に沿って内大臣森林鉄道の軌道跡がある。レールは完全に撤去されているが、農作業で時折通る人がいるためか、軌道跡は手入れされている。歩いてみると、緑川との落差が徐々に広がる。そのことから軌道の勾配はかなりゆるやかにつくられていたことがわかる。
軌道跡を10分ほどで歩くと、岩壁が迫る。岩壁には森林鉄道の台車が通過できる幅の隧道が掘られている。天井高3m弱で、隧道はゆるやかなS字カーブを描いている。

目丸の隧道跡。左下は緑川本流

緑川の支流内大臣川における営林事業は、大正5(1916)年度の西砥用(ともち)村清水(現美里町砥用)と目丸(めまる)国有林内の小松谷吐合(はけあい、現山都町目丸)間に内大臣森林鉄道が設置され、本格的に始まった。
昭和2(1926)年度には、甲佐町豊内まで森林鉄道が延長され、民有鉄道の熊延(ゆうえん)鉄道に接続することで、熊本市南熊本までの木材搬出が可能となった。一方、内大臣森林鉄道では小松谷支線、鴨猪(かもしし)谷支線、西内谷支線、北内谷支線が次々と開設され、山奥から大量の木材が切り出された。
伐採された木材は、木馬(きんま)を使って人力で内大臣川沿いの土場(どば)に集められ、台車に積みこまれた。台車には、作業員が乗り込み、ブレーキをかけながら目丸まで下った。目丸ではインクライン(動力で台車を動かす勾配軌道)を使い緑川の谷底までおろした。さらに、蒸気機関車(戦後は内燃機関車)に台車を接続し、豊内の貯木場まで運ばれていた。
だが、昭和38年11月に内大臣橋が完成。トラックでの木材搬出が行われるようになると、森林軌道の役割も終わりを告げることになる。内大臣森林鉄道全線が廃止されるのは、昭和39年度のことである。
目丸の隧道を抜けると青空が広がり、川沿いには茶畑が開かれていた。かつて茶木場(ちゃこば)と呼ばれていた場所である。緑川の川岸まで出てみると、流れは意外とやさしい。見上げると、青空を横切るように架かる内大臣橋が見えた。

茶木場から見上げる内大臣橋

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