笹原川こぶりが瀬の箕作り集団

昭和8年頃、浜町(現在の山都町)の和菓子屋に、箕(み)作りの親子が訪れる。「子供連れの箕作りの女房が観音笹で編んだ、茶碗籠を売りに来ました。見事な編方の良い出来でしたので、母は2個も買って、連れていた子供にと、妹の古着をやりました」。浜町の郷土史家井上清一さんが遺した『山窩物語』の一節である。
それから2、3日後のことである。清一少年は浜町から2キロほど離れた笹原川の「こぶりが瀬」に魚釣りに出かけ、赤い帯をした箕作りの女の子と再会する。夕方になると、箕作りの男たちや女房たちが、修理の箕を持って、「こぶりが瀬」に帰ってくる。女房は、古着をもらったお礼にと、男たちが獲った大きな鮠(はや)を20尾ほど清一少年の魚籠に押し込んでくれた。

笹原川「聖橋」上流の流れ

箕作り集団に興味を持った清一少年は、その後、彼らの足跡を追ってみる。「小峯村(旧清和村)の仮屋から、朝日村(同)の仏原へ、それから安方(同)から菅尾村(旧蘇陽町)に入ったまでは判明しましたが、それから先は何処に行ったか全くわかりません」(『山窩物語』)。箕作り集団の足跡は、馬見原(山都町)近くでプツリと消える。
地図をもとに、いろいろと考えた末、浜町から2キロほど離れた笹原川に架かる石橋「聖橋」上流を「こぶりが瀬」と推理した。「こぶりが瀬」は、清一少年が箕作り集団を再び見た場所である。
80年後の肌寒い日、「聖橋」の上流に降り立った。谷の両側は切り立った岩壁となり、両岸から杉木立や竹林が迫る。杉林の中のかすかな踏み跡をたどると、川岸近くに箕作りの女房が茶碗籠の材料としていた観音笹(オカメザサ、別名豊後笹)が茂っていた。

オカメザサ

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