氷川と塩売り勘兵衛の新道峠

五家荘(八代市泉町)から峠を越えて氷川流域へと運ばれた山の産物は、下流の宮原(氷川町)だけでなく、砂川下流の小川(宇城市小川町)にもかなりの部分が向かったという。
氷川沿いの下岳(八代市泉町)と砂川沿いの海東(かいとう)・小川を結ぶルートとして利用されてきたのが、八丁越、新道峠、榎坂の峠道であった。なかでも、「塩の道」として重要な役割があったのが、小川の商人塩売り勘兵衛によって拓かれた新道峠であった。

下岳を流れる氷川

新道峠によって小川と下岳が結ばれたのは、建武年間(1334)以前とされる。当時、砂川河口に近い小川には船着場が設けられ、長崎などから塩や鉄、肥料、干魚などが届いた。一方、砂川沿いのルートで下された山の産物は、八代海を経由して各地に運ばれた。
昔の砂川は、現在よりはるかに水量が多く、中流に位置する海東(氷川町)まで和船が遡っていたという。海東に残る「船尻」という地名は当時の名残である。
塩売り勘兵衛は、小川で塩や塩干魚を馬の背に積み、新道峠を越えて氷川側に下った。さらに氷川沿いに栗木(八代市泉町)・柿迫(同)まで遡り、子別峠(こべっとう)や三本木峠、笹越、朝日(わさび)峠を越え、五家荘、五木、さらに川辺川を下った四浦(球磨郡相良村)まで塩を運んだ。帰りには、茶や椎茸、雑穀、板類などを背負い、再び新道峠を越え、小川の船着場まで下った。これによって、塩売り勘兵衛は巨万の富を築いたとされる。
小川から新道峠への自動車道を上った。峠の真下はトンネルとなり、その脇から峠まで登るコンクリートの階段が繋がっている。急な階段を上り詰めると、峠には、「奉建立 安政六年 小川早萬屋又左衛門」と彫り込まれた石の祠が祀られていた。祠に手を合わせ、新道峠から氷川沿いの下岳へと下ると、森の香りがかすかに漂っていた。

新道峠の祠

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