栗鶴谷と木馬の算盤棚

「昭和38年の水害では、栗鶴(くりづる)にも被害があった。浪人越(ろうにんごえ)も荒れてしまい、それからは歩いて越えることがほとんどなくなった」。五木村栗鶴で聞いた昔話である。
昭和38年8月、熊本県下で集中豪雨があり、八代市内では人的被害が出ている。当時、栗鶴では広大な山林でコバ作(焼畑)が行われ、炭焼きも盛んであった。谷の奥にはコバ作の出小屋が2軒あり、木馬(きんま)を使って木材、炭などの山の産物が搬出されていた。
「木馬道のことを算盤棚(そろばんだな)と呼んでいた。山道に丸太を並べ、木馬に積んだ荷を川辺川本流の鶴(つる)まで運んだ。男が肩に渡したロープで前に立って木馬を引き、女たちは後ろから木馬を押しながら下った」という。山の産物は索道で川辺川を宮園へ渡り、そこからはトラックに積まれて人吉方面へ運ばれた。
栗鶴への自動車道は、集落の奥で栗鶴谷を右岸に渡る。その先は未舗装の林道となり、谷も急に狭まる。林道を登ると谷側への作業道があり、下ると「栗鶴第4砂防堰堤」で終点となった。終点で栗鶴谷の流れと出会うことができた。

栗鶴谷。奥に3段の小滝が見える

砂防堰堤の上流から栗鶴谷に入渓した。沢伝いに上流へと進むと両岸は自然林の森となり、奥に3段の小滝が見えた。谷から作業道まで戻ると、斜面にヤブツバキの木があり、一輪だけ朱色の花が咲いていた。

ヤブツバキの花が1輪だけ咲いていた

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