五木内谷川と番立峠の木馬道

寛文4年(1644)、御用商人林藤左衛門正盛によって人吉・八代間の球磨川の舟運を開削されるまで、相良藩は八代との行き来に峠越えの山道を使っていた。
八代と峠で行き来できる五木村の内谷川沿には、番立(ばんたち)峠のほか、内谷峠、小屋谷越(こやんだにごえ)などの生活の道があった。番立峠は旧坂本村(現在の八代市坂本町)の坂本への山道。内谷峠を越えると旧坂本村川原谷、小屋谷越を越えると旧坂本村日光に出ていた。内谷川沿いの集落は、坂本とは頻繁に行き来があり、親しくしていた。五木からは峠を越えて山の産物を運び、坂本の辻や日光からはサツマイモなどを持ち帰った。
番立峠の上り下りには木馬道が設けられ、丸太や炭を運んだ。登りは木馬を牛に引かせ、下りは人間が引いていた。「なり木」と呼ぶ木馬道の枕木には、樫や栗を使った。木馬道に長さ1.5mほどの「なり木」を並べ、登りでは木馬をすべりやすくするために油を垂らした。
木馬のブレーキを「はじき」と呼んだ。通常は前に一人が立って木馬を引き、後ろの一人が「はじき」の棒でブレーキをかけながら坂道を下った。下りでは摩擦熱で木馬から煙が出ることもあった。丸太は八代の十條製紙まで運んだという。

山口集落近くの内谷川

内谷川沿いに登ると山口(現在の県道沿いの集落)で、その上流が古山口。さらに登ると千本杉(県道沿いのバス停名は番立)となる。千本杉から分かれた林道に入ると花立(はなたて)で、番立峠への五木側の登り口となる。花立からゆるやかな山道を登ると、雑木に覆われた番立峠にたどり着く。番立峠を下ると、辻、日田地(ひたち)を経て坂本の中心地に繋がっていた。
番立峠の往来が盛んな時代には、花立の人家が峠の茶屋の役目を担っており、峠越えの人たちは花立に立ち寄ってお茶を飲んで一服した。かつて、八代の妙見祭では仔牛の市が立ち、五木の人たちは仔牛を仕入れ、連れだって番立峠を越え帰った。
番立峠に残る石の祠

地元で聞くと「若い時は千本杉から肥薩線の坂本駅まで片道1時間少々で歩いた。千本杉から番立峠までは30分。番立峠から辻までは20分。辻から坂本駅まで20分の距離だった。最後に坂本まで歩いたのは50年ほど前のことになる」という。
山の人たちの生活に大きな役割を果たしていた峠道も、今は歩く人もまれで、人々の記憶から消え去ろうとしている。

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