滑川と消えた端辺原野の村

菊池溪谷への道と別れ、滑(なめり)川沿いの自動車道へ入ると、すぐに伊牟田橋のたもとに出た。橋を渡った地点から川岸まで降りると、滑川は、巨石が積み重なったゴーロの谷となっていた。数日前の大雨で水は笹濁りだが、思ったほど水量は豊かでない。

巨岩で埋まった滑川

ゴーロの巨石帯を突破して上流へ向かうと、大きな淵が2つ続き、その先でスラブ状の滝が立ちはだかっている。左岸を迂回して滝の上部に出ると、先はフラットな一枚岩となった。滑川の名の由来となった「ナメ」の状態である。
ほっとして上流に目を向けると、再び川幅いっぱいの淵が現れ、その奥には新たなスラブ滝が見える。しかたなく、左岸を高巻きして滝の上に出ると、谷が広がり川底は再びナメとなった。やわらかな陽光が谷全体に差し込み、光を浴びて流水が煌めいている。

陽光に照らされる滑川の川面

滑川源頭の端辺(はたべ)原野に大鶴(おおつる)という地名があった。すでに、国土地理院の地図上からは消えているが、30年ほど以前には記載されていた地名である。大鶴は最も近い深葉(ふかば)集落まで直線距離で3キロ。当時の阿蘇町役場までなら12キロ余り。阿蘇西外輪と菊池渓谷の間の広大な原野に存在していた集落である。
「大鶴とはどんなところか」。知りたいと思った。30年前に訪れた大鶴は、すでに無人となっていたが、人々が暮らしていた痕跡がかすかに残されていた。深葉の古老の話によると、大鶴には炭焼きの人たちが住み着いていたという。明治43年には尾ヶ石東部小学校大鶴分教場(分校)が開設され、それなりの人口があったことがうかがえる。
戦後の食糧難時代になると、開拓団が大鶴にも入植する。しかし、昭和44年には大鶴分校が廃校となり、同時期、入植した開拓団も解散、数年後には集落が消滅する。
滑川を遡行していると、30年前に訪れた消えた村の痕跡がかすかに蘇ってきた。

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