向霧立越と大空武左衛門

日本に自動車が普及する以前、椎葉(宮崎県)と熊本を結ぶ交易路として、山の民が頻繁に往来していたのが、向霧立越(むこうきりたちごえ)の尾根道である。向霧立越の熊本側の起点のひとつが、山都町菅(すげ)の囲(かこい)集落である。
椎葉からは、馬の背に山の産物を積み、向霧立越を伝い、囲に下る。囲の先には、緑川本流の深い渓谷が待ちかまえている。谷底まで下り、鮎の瀬と呼ばれる浅瀬で緑川を渡河すると、対岸には、つづらの山道が築かれている。上り切ったところが、山都町田所の戸屋野である。戸屋野から白糸台地を横切り、浜町(山都町)に着くと、酒や生活物資を馬の背に積み、再び向霧立越を椎葉へ越えることになる。
細川藩のお抱え力士だった大空武左衛門は、戸屋野の出身とされる。寛政8年(1796)生まれで、本姓は坂口。文政10年(1828)、大空武左衛門は肥後藩主細川斉護(なりもり)に連れられ江戸に赴き、勝ノ浦部屋に入門する。
大空武左衛門は身長2m27cm、体重131kgという巨体の持ち主だった。容貌にも特徴があったらしく、手足が異常に長かったと伝えられている。異形の巨漢力士である。だが、実際に相撲を取ったことはなく、土俵入り専門の力士であった。武左衛門が没したのは、天保3年(1832)9月5日、37歳の時である。
田所から戸屋野へ向かうと、途中、大空武左衛門の墓が林の中にある。戸屋野集落跡には山仕事の作業小屋や集会所が残り、緑川を隔てて椎葉までつながる稜線が見渡せるようになる。

雪の残るつばめ滝

戸屋野からは、つばめ滝を見るために森の中を下った。そのうち、内大臣方面から雪雲が流れ、小雪がちらつき始めた。まだ見えぬ谷底からは、滝を流れ落ちる水音が近づいてくる。瀑音を頼りに山道を下ると、突然、つばめ滝のたもとに出た。
つばめ滝を下った笹原川は、鷹滝と鵜の子滝と出会う。鵜の子滝が笹原川の終点である。鵜の子滝の直下が鮎の瀬の浅瀬。ここで笹原川は緑川本流と合流することになる。

鷹滝と鵜の子滝

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