三ヵ所川と木地師の活躍

宮崎県五ヶ瀬町三ヵ所の長迫(ながさこ)には、木地師(きじし)の子孫にあたる小椋(おぐら)家があり、実際に使われていた手挽き「ロクロ」が伝えられている。
同家には、30数年前、地元テレビ局によって放映された盆づくりの工程が、ビデオで残されている。工程は次のようなものである。
木地師の仕事場は、「山床」(山の現場)と、「家床」(麓の自宅)に分けられる。
長迫周辺は、戸根川の谷を中心にシオジ、ブナ、ケヤキ、ヤマザクラなどが豊富で、山中に小屋がけして材料を切り出していた。

長迫近くの三ヵ所川

山床では切り出した丸太を玉切りし、鉄製の大鉈で縦に割る(ブンギリ)。割った材料は木製のコンパスを使って、盆の木取りを行う。この時の木取りが製品の質を左右する。
その後は、木取りにあわせて鉈で丸く削っていく。これを「クロケズリ」と呼んでいる。さらに、「ホリコ」を使って「アラボリ」する。この時は、材料を足で押さえ、少しずつ回しながら余分な部分を削る。それが済むと、「チョウナ」で盆の内側を削る工程となる。
「クロケズリ」や「アラボリ」は女性の仕事で、「山床」での作業となる。こうして、大まかに削った材料は「メゴ」に入れ、背負って麓の家に持ち帰える。半製品を背負って麓まで下るのも重労働であった。
「家床」では、仕上げ工程に移る。
まず「チヨウナ」でていねいに削り、手挽き「ロクロ」の歯に材料を打ち込む。この時、「ロクロ」の軸が、材料の中心に来るように調整するのが難しい。
「ロクロ」がけでは、一人が太いひもを引き、もう一人が回転する材料に「ナカブチ」をかけて削っていく。左右のひもを交互に引くことで、「ロクロ」も右回転と左回転が交互に行われる。

小椋家に残る手挽きロクロ

最後に「マエビキ」で表面を仕上げ、ロクロからはずす。その後「チョウナ」を使って裏側に四本の足を削り出す。
仕上がった盆には、炭の粉を混ぜた柿渋を7回塗る。さらに外側に黒漆、内側に赤漆を塗って完成である。製品は、主に馬見原(熊本県山都町)に出荷していたという。
現在、地元には小椋家で製作したシオジの盆が2枚残っている。「矢部盆」と呼ばれていることから、熊本県矢部地方で多く使われていたタイプだとされる。

柿渋と漆で仕上げられた矢部盆

長迫からは、山の産物の集積・中継地である馬見原(山都町)、三田井(高千穂町)、赤谷(五ヶ瀬町)、鞍岡(同)との間を比較的短時間で行き来できる峠道がある。
かつての長迫は、背後に三ヵ所川源流の豊富な広葉樹林帯を控え、材料を入手しやすかった。しかも、交易面からも有利な地理的位置にあり、木地師が活躍する環境が整っていたことがわかる。

飯干川と山人たちの端海野

栗木川に沿った舗装道路を上り、子別峠(こべっとう)に登り着くと空が大きく開き、彼方に五家荘から五木にかけての稜線が姿を現す。子別峠集落には洋ラン栽培のビニールハウスが並び、ハウスの中から人の話し声が聞こえる。
端海野(たんかいの)は子別峠から3キロmほど。端海野も子別峠も、戦後開拓によってできた集落である。子別峠は、平沢津など地元五木の人たちを中心に拓かれたが、端海野は地元以外からの入植者が多かったとされる。
端海野に入植が始まったのは昭和25年。戦地からの引き揚げ者などが開拓団募集に応じ、その人たちを中心に「栗ヶ丘開拓団」が結成される。
「栗ヶ丘」の名の由来は、端海野にヤマグリの大木が多かったことによる。「秋には五木の人たちが飯干川沿いに登ってきて、たくさんのヤマグリの実を背負って下って行った」という。また、端海野にはマツやブナなどの大木が残っていたため、飯干川沿いに木馬道(きんまみち)を築き、木材が搬出された。だが、十年ほどして「栗ケ丘開拓団」は解散、入植していた人たちも次々と山を去っている。

端海野から流れ下る飯干川

五木や端海野の人たちが行き来したという飯干川沿いの山道を歩いた。渓谷には端海野の高原から山水が集まり、その流れを広葉樹が覆い尽くしている。端海野から子別峠へ戻ると、峠でヨメナの群落が咲き乱れている。そのたくさんのヨメナに混じって、一株だけシラネセンキュウが花開いていた。

子別峠に咲くシラネセンキュウ

奥村川とマムシグサの赤い実

五ヶ瀬町本屋敷から国見トンネルを抜け、十根(とね)川(耳川支流)沿いの国道265号を下ると、奥村へつながる自動車道が左に分かれる。奥村川沿いの自動車道は狭隘で、両岸から岩壁が迫る。自動車道から川底までは10m以上の高度差があり、急峻である。容易に川岸まで下ることはできない。
ゆるやかな斜面を探し当て、灌木につかまりながら川岸まで下りた。渓谷には苔の乗った巨岩が点在し、浅い淵と砂利のたまったトロ場が交互に現れる。水の透明度は高い。周囲の稜線がそれほど奥深くないにもかかわらず、水量が多い。小さな沢がいくつもあり、そこから豊富な山水が流れ込んでくる。

晩秋の奥村川

諸塚(もろつか)村へつながる古い峠道の起点が、奥村集落である。奥村から谷を上り詰め、黒岳(標高1455m)の肩を越えると諸塚村七ッ山(ななつやま)に至る。今でも、奥村川源流のマイゴウ谷左岸を辿り、横尾峠を経て七ッ山につながる峠道が地図上に残されている。
奥村で峠越えの山道のことを聞いてみたが、昔のことを知る人となかなか出会えず、最奥の明林寺まで足を伸ばした。
「谷を上ったところが小畑(おばた)で、以前は人家があった。今はだれも住んでいない。小畑から山道を越えると、七ッ山の奥畑(おくはた)につながっていた」という。
小畑まで林道を登ってみた。地図では、七ッ山に抜ける林道があることになっているが、その日は工事で通行止め。林道脇の木立の中に、真っ赤な実を成らしたマムシグサがポツンと立っていた。

マムシグサの赤い実

五家荘福根谷と峠越えの山道

自動車道が整備される以前の五家荘(八代市泉町)では、峠越えの山道が生活道路であった。五家荘仁田尾(にたお)の福根(ふくね)では、「昔、ここから泉村役場のあった落合(おちあい)まで歩いて5~6時間だった」という。
「福根谷沿いの山道を登り、大金峰(だいきんぽう)と小金峰(しょうきんぽう)の鞍部を越え、水無(水梨)から菖蒲(しょうぶ)谷まで下る。さらに、菖蒲谷沿いに朝日(わさび)峠に登り、峠から西に向かうと横手(よこて)から役場のある落合に出た」。

福根谷に架かる木の吊り橋

朝日峠からは、旧砥用町(現在の美里町)に下る山道もあり、早楠(はやくす)につながっていた。「米、味噌、醤油などの食料品は砥用で仕入れていた」という。
一方、福根から谷内(たにうち)川沿いの山道を経由して二本杉に出るルートもあった。福根からは干しシイタケ、アズキ、炭などを馬の背に積み、二本杉経由で早楠まで運んだ。アズキは米と同じ価値があったという。仁田尾ではコバ作(焼畑)が盛んで、アズキ、ヒエ、アワ、トウキビ、ダイズ、ダイコンなどを作った。
また、福根谷沿いの山からは、ケヤキ、シオジなどのほか、樽丸材のスギ、ゲタ材のクルミ、バットの材料として高く売れたタモなどを搬出していた。タモは、角材にして人が背負って二本杉経由で下ろした。ほかは、主に木馬(きんま)で谷内川に運び、川流しで五木まで運んだ。
福根谷も谷内川も紅葉が始まったばかり。シマカンギクやノコンギク、アキチョウジの花が咲いていたが、いずれも花期は終わりに近づいていた。

谷内川沿いに咲くシマカンギクの花

滑川と消えた端辺原野の村

菊池溪谷への道と別れ、滑(なめり)川沿いの自動車道へ入ると、すぐに伊牟田橋のたもとに出た。橋を渡った地点から川岸まで降りると、滑川は、巨石が積み重なったゴーロの谷となっていた。数日前の大雨で水は笹濁りだが、思ったほど水量は豊かでない。

巨岩で埋まった滑川

ゴーロの巨石帯を突破して上流へ向かうと、大きな淵が2つ続き、その先でスラブ状の滝が立ちはだかっている。左岸を迂回して滝の上部に出ると、先はフラットな一枚岩となった。滑川の名の由来となった「ナメ」の状態である。
ほっとして上流に目を向けると、再び川幅いっぱいの淵が現れ、その奥には新たなスラブ滝が見える。しかたなく、左岸を高巻きして滝の上に出ると、谷が広がり川底は再びナメとなった。やわらかな陽光が谷全体に差し込み、光を浴びて流水が煌めいている。

陽光に照らされる滑川の川面

滑川源頭の端辺(はたべ)原野に大鶴(おおつる)という地名があった。すでに、国土地理院の地図上からは消えているが、30年ほど以前には記載されていた地名である。大鶴は最も近い深葉(ふかば)集落まで直線距離で3キロ。当時の阿蘇町役場までなら12キロ余り。阿蘇西外輪と菊池渓谷の間の広大な原野に存在していた集落である。
「大鶴とはどんなところか」。知りたいと思った。30年前に訪れた大鶴は、すでに無人となっていたが、人々が暮らしていた痕跡がかすかに残されていた。深葉の古老の話によると、大鶴には炭焼きの人たちが住み着いていたという。明治43年には尾ヶ石東部小学校大鶴分教場(分校)が開設され、それなりの人口があったことがうかがえる。
戦後の食糧難時代になると、開拓団が大鶴にも入植する。しかし、昭和44年には大鶴分校が廃校となり、同時期、入植した開拓団も解散、数年後には集落が消滅する。
滑川を遡行していると、30年前に訪れた消えた村の痕跡がかすかに蘇ってきた。

河俣川鹿路橋と木地師伝説

全国の山中を手挽き轆轤(ろくろ)とともに移動しながら、木の椀、盆などを製作する職人集団がいた。木地師(きじし)、あるいは轆轤師と呼ばれる人々である。伝説によると、木地師は、文徳天皇第一皇子の惟喬(これたか)親王(844~897)を始祖とし、近江国蛭谷(現在の滋賀県東近江市)を本拠地に全国に散らばったとされる。
木地師たちは良質な材料を求めて各地を渡り歩いた。そのため、木地師に因む地名が各地に残されている。木地屋、雉(きじ)谷、ロクロ谷、六呂山、六郎谷、六郎丸、六郎次山、鹿路(ろくろ)なども、木地師に由来すると考えられている。
旧東陽村(現八代市)河俣から大通 (おおとおり)峠を越えて五木村に繋がる県道がある。河俣から大通峠へ向かう途中、鹿路集落と座連(ざれ)集落の分岐点に、嘉永元年(1848)に竣工した石橋鹿路橋がある。

河俣川に架かる鹿路橋

鹿路集落で鹿路橋について尋ねてみた。「昭和30年代までバスは鹿路の石橋を渡っていた。ただ、幅が狭いために『架け出し』と言って、石橋の上に丸太を敷いて幅を広くしていた」という。現在のコンクリート橋が架けられたのは、昭和41年になってからである。
木地師のことも尋ねてみたが、「轆轤職人がここに来ていたかどうかは、地元でもわかっていない」という。だが「大通峠に自動車道が通じるまでは、五木から人が炭やお茶を背負って峠を下ってきていた。小川(現宇城市)まで荷物を運び、帰りにはコメを背負って大通峠を越えていた」と教えてくれた。
鹿路橋の脇に立つと、座連集落との別れ道にシャガの群落があり、ちょうど花が満開期を迎えていた。

咲き誇るシャガの花

山野川のサザンカと最後の警笛

矢城山(標高585.9m)に登った時の記憶は、かすかにしか残っていない。ただ、その日が昭和63年1月31日だったことだけは間違いない。
その日、矢城山中にディーゼル機関車の鳴らす長い警笛が響いた。その時は気にとめなかったが、数年後、その日が山野線最後の日(昭和63年1月31日)だったことに気が付いた。警笛は、沿線の人たちに別れを告げるためのものだった。
国鉄山野線は、熊本県水俣市と鹿児島県栗野町(現在の湧水町)の間を55.7キロで結び、16の駅が設けられていた。昭和12年12月に当時の芦北郡久木野村と鹿児島県山野村布計(ふけ)間が完成することで、山野線全線が開通。熊本県境に隣接した鹿児島の薩摩布計駅近くには、金を採掘していた布計鉱山があり、山野川流域は大いににぎわった。

山野線薩摩布計駅跡。機関車の車輪が残されている

山野線最後の日から30年たって、鹿児島県伊佐市側から山野川を遡った。羽月川沿いの国道268号から山野川沿いの県道に入り、石井川内(いしごち)集落を過ぎる。すると谷が一基に狭くなり、照葉樹の森が迫ってくる。
目的地の薩摩布計駅跡への途中、木地山(きじやま)集落で立ち話をした。地元の人から「昔はここで木地師が仕事をしていたらしい」と聞いた。そして、水俣病が大きな社会問題となるまでは、水俣から山野線に乗って多くの魚の行商が来ていたという。
薩摩布計駅跡からの帰り、山野川の渓流際まで降りた。谷には古い橋が2つ架かり、使われていない下流側の橋のたもとで川岸に出てみた。晩秋の流れは冷たく水流も激しい。足元をすくわれそうになって、思わず橋脚にしがみついた。
橋脚のコンクリート台座に這い上がり、向こう岸に目をやると、白い花が咲いている。水流に逆らいながら対岸にたどりつくと、花を咲かせていたのはサザンカの大木であった。巨石に這い登り、花をしげしげと眺めてみた。一重の花びらが太陽に向けて開き、周りにたくさんの蕾がある。満開の時に訪れてみたいと思った。

山野川の流れ。左岸奥のサザンカに白い花が満開となっている

向霧立越と大空武左衛門

日本に自動車が普及する以前、椎葉(宮崎県)と熊本を結ぶ交易路として、山の民が頻繁に往来していたのが、向霧立越(むこうきりたちごえ)の尾根道である。向霧立越の熊本側の起点のひとつが、山都町菅(すげ)の囲(かこい)集落である。
椎葉からは、馬の背に山の産物を積み、向霧立越を伝い、囲に下る。囲の先には、緑川本流の深い渓谷が待ちかまえている。谷底まで下り、鮎の瀬と呼ばれる浅瀬で緑川を渡河すると、対岸には、つづらの山道が築かれている。上り切ったところが、山都町田所の戸屋野である。戸屋野から白糸台地を横切り、浜町(山都町)に着くと、酒や生活物資を馬の背に積み、再び向霧立越を椎葉へ越えることになる。
細川藩のお抱え力士だった大空武左衛門は、戸屋野の出身とされる。寛政8年(1796)生まれで、本姓は坂口。文政10年(1828)、大空武左衛門は肥後藩主細川斉護(なりもり)に連れられ江戸に赴き、勝ノ浦部屋に入門する。
大空武左衛門は身長2m27cm、体重131kgという巨体の持ち主だった。容貌にも特徴があったらしく、手足が異常に長かったと伝えられている。異形の巨漢力士である。だが、実際に相撲を取ったことはなく、土俵入り専門の力士であった。武左衛門が没したのは、天保3年(1832)9月5日、37歳の時である。
田所から戸屋野へ向かうと、途中、大空武左衛門の墓が林の中にある。戸屋野集落跡には山仕事の作業小屋や集会所が残り、緑川を隔てて椎葉までつながる稜線が見渡せるようになる。

雪の残るつばめ滝

戸屋野からは、つばめ滝を見るために森の中を下った。そのうち、内大臣方面から雪雲が流れ、小雪がちらつき始めた。まだ見えぬ谷底からは、滝を流れ落ちる水音が近づいてくる。瀑音を頼りに山道を下ると、突然、つばめ滝のたもとに出た。
つばめ滝を下った笹原川は、鷹滝と鵜の子滝と出会う。鵜の子滝が笹原川の終点である。鵜の子滝の直下が鮎の瀬の浅瀬。ここで笹原川は緑川本流と合流することになる。

鷹滝と鵜の子滝

岩野川源流と菊池一族

『鹿北町誌』(昭和49年11月、鹿北町役場発行)には、「茂田井川(岩野川源流)上流には『菊池のり』が生じていますが、これは昔菊池氏が『へこ』(ふんどし)を洗ったので『菊池のり』ができるようになったといいます」と記載されている。
菊池氏が活躍していた南北朝期、岩野川(菊池川支流)流域は、筑後に対する菊池氏の外郭陣地となっていたとされる。茂田井は岩野川最上流の集落で、南側の尾根を越えると内田川の谷となり、そこからは菊池氏の本拠地隈府(わいふ)は近い。
茂田井の古老は、「今はわからなくなっているが、菊池に通じる山道があった。『菊池さんのわくど(湧水)』や『菊池さんのニラ畑』『菊池さんの馬かけ場』という地名も残っている」という。
一方、茂田井から筑後側に越える峠道もあった。「こちらではゴゼ峠と呼んでいた。戦後しばらくまで、峠を越えて八女から行商の人が大きな風呂敷包を背負って反物などを売りに来ていた」。
岳間渓谷で岩野川まで下降した。渓流は岩盤の上を流れ、小滝と浅い淵が点在している。水温は想像したよりも低い。

岩野川源流の流れ

ヤマメのことも地元で尋ねてみた。「昔は夕立があると水が濁ってヤマメが獲れると言って、親が農作業を切り上げて釣竿やホコを取りに家に戻った。10月ごろになると岩野川の砂地ではヤマメが産卵していた」という。
渓流の浅瀬から這い上がり、国見山登山口に向かう林道に入った。茂田井から奥はスギやヒノキの森となり、その中を岩野川源流が流れる。源流沿いでは、オタカラコウ、ツリフネソウ、オオマルバノテンニンソウ、ジンジソウなどが花期を迎えていた。

岩の上のジンジソウ

残雪の満願寺川と隠れ切支丹

満願寺温泉の上流には棚田が続き、さらに川沿いに上ると雑木林に挟まれた溪谷となった。樹林が切れる源流域で、満願川は細流となり、原野の中に消える。
川沿いの自動車道を上流に向けて遡りながら、いくつかの集落でヤマメのことを尋ねた。「アブラメはいるがヤマメはいない」、「以前はヤマメを放流していたが、今は放流していないのでいないと思う」など、否定的な答えが多い。
それでもあきらめずに、いくつかの集落で話を聞くうち、「20年ほど昔のことだが、小学生だった息子がミミズを餌に鼻の曲がった大ヤマメを釣ってきた」、「ヤマメはいるはずだが、釣る人がいなくなった」と話す人も現れた。
自動車道から雑木林の急斜面を降り、満願寺川の川底まで出てみた。川沿いは、照葉樹と落葉広葉樹が混じった暗い林となっている。数日前に降った雪はほとんど消えていたが、陽光の差さない川岸に立つと冷気が足元から這い上がってくる。

落ち葉に覆われた満願寺川

渓谷は一枚岩に覆われ、その割れ目を縫って川水が流れる。両岸から落葉が谷底に降り落ち、川底の一枚岩を覆い尽くしている。
凍えないうちにと、自分の足跡をたどって斜面を登ると、落葉の中にユキワリイチゲがあった。ユキワリイチゲは、雪を割って花が咲く。花言葉は「幸せになる」とされている。だが、この時期は蕾がようやく顔をのぞかせているだけである。
満願寺川からの帰り、古老に教えられて「臼内切」(うすねぎり)まで山道をたどった。「臼内切」は、江戸期に切支丹弾圧を逃れ、満願寺川奥地に隠れ住んだ人たちの塚とされる。隠れ切支丹の人たちも、満願寺川でユキワリイチゲの花を見たのだろうか。

ユキワリイチゲの花