五木村下梶原川と焼畑の村

下梶原集落(五木村)の下流で、急斜面を下梶原川まで降りた。河原まで下ると、川岸近くに点々と淀みがあり、流れ寄せられた落ち葉が漂っている。渓谷の両側は急斜面だが、川底そのものはフラットである。

下梶原川の流れ

下梶原は、五家荘久連子地区から移り住んだ人々によって開かれた。『下梶原のあゆみ』(嶽本一男)によると、江戸時代中期の享保16年(1731)、久連子では、焼畑の生産能力を超えて人口が増え、村民27名が宮園、入鴨、中道、下梶原(いずれも現在の五木村)、水上村などに移住している。その時、下梶原には9名が定住。旦那(地主)の梶原椎葉家のもとで、名子(なご)として焼畑や山仕事に就いたとされる。
下梶原に転機が訪れるのは、昭和14年(1939)のことである。熊本県が下梶原地区を分収林としたため、椎葉家から1戸当たり10町の山林が名子へ無償分与された。
下梶原では、本畑を蕎(そば)、稗(ひえ)、小豆(あずき)、粟(あわ)の順に4年間耕作し、他に麦畑と野菜畑があった。焼畑とするのは年間1町分である。焼畑のサイクルは30年で、そのため1戸30町が必要であった。それが実現したのは、戦後の農地解放令によってである。
下梶原から本流川辺川との合流点竹の川集落への帰り、道路沿いに咲く黄色い花を見かけ車を止めた。しげしげと見ると、花期が終わりかけたヤクシソウであった。

下梶原川沿いの道に咲くヤクシソウの花

東内谷と消えた内大臣の暮らし

内大臣渓谷(上益城郡山都町)で本格的な森林開発が始まったのは、大正期のことである。大正5年(1918)、浜町営林署内大臣事業所が開設され。大正7年には、営林署立の分教場「内大臣家庭教育場」が設けられている。
最盛期の内大臣集落は、「下土場」、「上土場」、「川越」の3地区に分かれ、中心地には事務所や集会所、売店、軽便鉄道の引き込み線などがあった。さらに、支流の西内谷には「龍の髭」、内大臣川上流には「二本杉」と呼ばれる小集落があり、森林作業員が暮らしていた。戦後になり、「二本杉」には、ディーゼル機関車を方向転換するためのターンテーブルが置かれた。
無人となった内大臣集落跡を左に見ながら椎矢林道を登ると、目丸発電所につながる取水口が現れる。その先で林道は右岸に渡る。あたりが、かつての「二本杉」である。さらに林道を上り詰めると、東内谷へ向かう林道が分かれる。

東内谷でヤマメを狙う

東内谷の堰堤下で同行者が竿を延ばした。餌はミミズ。広葉樹がびっしりと茂り、晴れた日なのに谷底は薄暗い。堰堤下では思ったほどのアタリがない。下流に移動し、浅い小淵が連続する地点で再び竿を出してみた。同行者は身軽に渓流を移動し、こまめにポイントを探す。足元に注意しながら後ろ姿を追っかけているうちに、岩の上で息を殺していたガマガエルに気がついた。

渓流沿いの岩の上に潜んでいたガマガエル

小川川と鍋割の地付きヤマメ

小川川は、鞍岡(宮崎県五ヶ瀬町)の南側で五ヶ瀬川と合流する。谷沿いの小川集落は、小川岳(標高1542m)の稜線を越える「小川緑川越」によって、赤木集落(熊本県山都町)と人・モノの往来があった。
「10年ほど前までは、小川川には放流ものでない天然ヤマメがいた」。探し求めていた五ヶ瀬川の地付きヤマメの消息を、小川集落(宮崎県五ヶ瀬町)で聞くことができた。
小川集落のシタイケ乾燥室を抜けると小さな畑があり、その横が小川川である。「毎年今ごろになると、浅瀬でヤマメが産卵する」と乾燥小屋の持ち主が教えてくれた。見ると、幅5mほどの流れに、細かい砂利のたまった浅瀬がある。

小川川の流れ

鞍岡から椎葉村方面に国道を上り、小川集落への町道に入ると、谷沿いに棚田が続く。陽当たりのよい斜面には、ミゾソバやヨメナ、アキノキリンソウが咲き始めている。「新小川橋」を渡ったあたりから谷が狭くなる。橋のたもとの左岸沿いに、未舗装の旧道が残っている。
地元では、旧道に架かる橋のあたりを『鍋割』と呼ぶ。鍋割橋の上流から川水を分流して鞍岡の小切畑まで送っている。ヤマメが棲むのはさらに上流になる。
鍋割橋から小川川の岸辺に下ると、左岸沿いに古い用水路がある。浅い部分を選んで対岸に渡ったが、水深は膝ほどである。だが、小川川の流れは、凍えるほどの冷たさであった。

陽当たりの良い斜面にヨメナが群落をつくっていた

インクラインと井戸江峡の森林鉄道橋

知人から次のような話を聞いた。「大昔、内大臣川と緑川の合流点にあったインクラインで大きな事故があった。インクラインには人は乗ってはいけないが、昇りの空車に乗っていた人がいたらしい」という。インクラインは、丸太を積んだトロリーを制動機で加減しながらワイヤーで降ろし、同時に空車を引き上げる装置である。一時は全国各地の営林事業で盛んに使われたが、戦後はほとんど使われなくなる。
明治時代末期から森林開発が始まった内大臣川流域では、早くも大正4年(1915)に内大臣森林鉄道が敷設される。内大臣川の奥地から切り出された木材は、森林軌道のトロッコに積み込まれ、緑川本流を見下ろす地点まで下った。緑川本流沿いには「茶木場」(ちゃこば)と呼ぶ貯木場があった。「茶木場」からは、軌道台車に積み直され、ガソリン気動車や蒸気機関車、後にはディーゼル機関車に引かれ、甲佐貯木場まで運ばれていた。

緑川本流井戸江峡の流れ

甲佐町の市街地から緑川沿いの県道を遡ると、「井戸江峡」と呼ばれる渓谷域となる。「井戸江峡」の上流には「茶木場」から下ってきた内大臣森林鉄道の鉄橋が残されている。
森林鉄道廃止後、鉄橋は歩道橋として利用されていたため、軌道部分はすべてコンクリートで塗り固められている。対岸をのぞき見ると、「茶木場」につながる軌道敷跡はすっかり雑木にふさがれている。かつて、木材を満載した台車が機関車に引かれ鉄橋を渡っていた面影は、幻のように消え去っていた。

井戸江峡上流に残る内大臣森林鉄道橋

緑川源流と小屏風神社のトチの大木

年号が平成に替わる以前のことである。緑川源流から宮崎県椎葉村との県境三方山(標高1578m)までの遡行を計画した。源流行に備えて、前夜、源流近くの沢津(旧清和村・現山都町)の小屏風(こびょうぶ)神社境内にテントを張った。
小屏風神社境内に到着した時には、すでに星が瞬き始めていた。暗闇が迫る中、懐中電灯の明かりを頼りに3人で食事を済ませ、それぞれにテントを張った。寝袋に潜り込んだころから、風が出てきた。境内の木々が激しい葉音をたてた。
深夜、小石が落下して地面を叩くような音が断続的に続き、いくつかはテントを直撃した。落下音は風が静まるとともに止んだ。
翌朝、テントから這い出すと、境内一面にトチノキの実が散らばっていた。夜中の強風で実が一気に落ちたらしい。見上げると、境内はトチノキの大木に覆われ、われわれはその真下でテントを張っていた。
翌朝の源流行は、穿(うげ)の洞窟地点から入渓したが、遡行距離の長さから三方山山頂まで辿り着くことができなかった。

緑川源流穿の洞窟

数年ぶりに穿の洞窟への道を辿ってみた。「緑川の水源はここから流れ出、日向(宮崎県)まで通じている」との伝説がある穿の洞窟入り口には、注連縄が張られている。水量は豊富である。渓流沿いにはコンロンソウやヤマブキ、マムシグサの花がひときわ目立った。
緑川源流からの帰り、昔一夜を過ごした小屏風神社に立ち寄ってみた。新緑のトチノキの葉で覆われた境内は、きれいに掃き清められていた。

新緑の中でひときわ目立つヤマブキの花

五ヶ瀬川滝下のトロ場と観音堂

久しぶりに蘇陽峡の滝下(上益城郡山都町)に訪れた。滝下への町道は、今村で国道265号から分かれ、五ヶ瀬川に向かって一気に下る。岩壁を伝うように設けられた舗装道路を下ると、蘇陽峡にたどり着く。渓谷の両岸には切り立った岩壁が延々と続き、その底に五ヶ瀬川が静かに流れている。滝下地区は、清流と岩壁に挟まれ、左岸側に人家や棚田が点在している。
滝下の町道を下流の九州電力三ヶ所発電所に向かう。発電所に渡る二瀬橋のすぐ上流が、五ヶ瀬川と支流三ヶ所川の合流点である。合流点では50代の男性が、ちょうど仕掛けの準備中であった。
「解禁日にここより下流で20cmクラスを10尾ほど釣った」。6号の針にエサはクリ虫。小さな重りと毛糸の目印を付けて、エサを流れに乗せてヤマメを誘うのだという。「今ぐらいなら川虫がいいが、まだ川虫の姿がない。桜の花びらが散るころには、川虫が採取できるので、実際はそのころが狙い目」だという。

滝下のトロ場でヤマメを狙う

二瀬橋のすぐ下流が浅いトロ場。まず、流れに立ち込んでトロ場でヤマメを狙う。そこから上流は、本流・支流とも岩に仕切られた浅瀬が続くことになる。
橋の下をくぐり、五ヶ瀬川本流に沿って浅瀬を釣り上ると、今度は浅い小渕が点々と続く。その奥まで辿ると、河原付きの浅瀬があり、その上流でやや深いトロ場となる。
竿を振る釣り人の姿を追って川岸を伝ううちに、いつの間にかトロ場を見下ろす巨岩の上に登っていた。滝下からの帰り、近くの滝下観音堂に立ち寄った。岩壁の下の石仏にはサカキが添えられていた。

滝下観音堂奥の岩壁の下に石仏が祀られている

神原川メンノツラ谷とイワメの謎

ヤマメは、神奈川県箱根以北と北陸、中国山陰の日本海側河川、九州の太平洋側河川に分布するサクラマスの陸封型淡水魚である。アマゴは、箱根以西の本州太平洋側河川と瀬戸内海側河川に生息し、サツキマスの陸封型とされる。体側に小朱点があるのがアマゴ、ないのがヤマメと分類されている。
アマゴは、九州では瀬戸内海側に流れ込む大分県内の河川に生息するとされるが、イワメと呼ばれる謎の渓流魚の存在も知られている。
イワメの存在が最初に確認されたのは、大分県大野川水系神原(こうばる)川源流のメンノツラ谷である。地元では、メンノツラ谷最上流にアマゴに似るが、幼魚斑(パーマーク)や黒点・朱点がない渓流魚がいることが知られていた。

増水した神原川メンノツラ谷

イワメが、新種のサケ科魚類イワメとして正式に報告されたのは、昭和36年のこと。だが、その後の調査で、本州や四国の幾つかの河川でもイワメの生息が確認されている。現在、イワメはアマゴの劣性突然変異という説が有力となっている。
阿蘇郡高森町津留から県道8号線を北に向かい、大分県内の宇目小国広域林道に入ると、祖母山系緩木山の支尾根をいくつも横切る。しばらで豊姫橋。ここで神原川を右岸側に渡り、本流沿いに下ると神原集落でメンノツラ谷と出会う。メンノツラ谷沿いの舗装道路を遡り、白水(しろうず)橋を渡ると白水集落。ここから上流がイワメの生息域とされる。
棚田の間の農道を下りメンノツラ谷に降り立つと、2日前までの長雨の影響で増水していた。渓流に足を浸すと思いのほか冷たい。
メンノツラ谷からの帰り、高原の津留まで戻ると、道路沿いのあちこちにオタカラコウやヤマジノホトトギス、ハガクレツリフネソウの花が咲き始めていた。

高森町津留に戻ると道沿いにヤマジノホトトギスの花が咲いていた

枳之俣川と消えた米の窪への道

20年ほど昔に登ったことのある米の窪(こめのくぼ、標高673m)を再び訪れようと思い立った。八代市坂本町中津道で球磨川本流沿いの国道219号と別れ、市ノ俣川沿いの舗装道路を1キロほど上流へ向かうと、今度は枳之俣(げすのまた)川が左に別れる。枳之俣下流は比較的フラットだが、上流へ向かうとすぐに谷が狭まる。
麓の枳之俣集落で山道のことを尋ねてみたが、登るのを止められた。「米の窪への道は、もう消えているからやめたほうがいい」。
枳之俣から望む米の窪の山頂は、見上げるような尾根上にあるが、かつては人が頻繁に登り降りしていた。枳之俣の5戸が組合をつくり、米の窪に養蚕小屋が設けられたのは昭和23年ごろである。米の窪の山頂は平坦で、麓では想像できないほどの広さがあった。桑を栽培することが可能だった。
「最初は米の窪まで人がやっと登れる程度の山道しかなかった。肥料を担ぎ上げるのも大変だった。麓との間に索道を通してからは肥料運搬も楽になった」という。索道のワイヤーに鉄篭を下げ、肥料や繭を運んだ。ワイヤーの巻き上げも最初は人力頼りであった。養蚕事業は昭和40年ごろまで続いたという。

照葉樹林の中を流れ下る枳之俣川

米の窪まで登るのはあきらめて、枳之俣川まで降りた。集落内は護岸工事で人工的なものに変わってしまったが、その下流は照葉樹の森の中を流れる。カシの木につかまりながら、岩混じりの急斜面を谷底まで下ると、前日までの豪雨で渓流は濁っていた。
枳之俣からの帰り、谷に渡された錆びた索道を見つけた。ワイヤーには鉄製の篭がぶら下がったままになっている。米の窪の索道もきっとこんなものだったのかと想像してみた。

枳之俣川沿いで見た索道

アユ舞う那良川と白浜森林軌道

球磨村の那良口(ならぐち)に架かる橋のたもとで、アユのことを尋ねた。「那良川にもアユは遡上してくる。球磨川が増水した時にはマスが上って来る。俣口(またくち)にはヤマメもいるが、那良口でも20cm以上のヤマメが釣れる」という。那良川の川面に視線を向けると、石垢を食(は)みながら水中で舞うアユたちの姿が見えた。
那良川源流域の白浜国有林から那良口まで白浜森林軌道が敷設されたのは、明治44年のことである。延長1万1580m。白浜森林軌道では、那良川上流から作業員が、木材や炭を積んだ台車を操作しながら那良口まで下った。戻りには、馬が台車を牽いた。そのために那良口に馬小屋が設けられ、馬が待機していた。
那良川右岸をひたすら下ったトロッコ道は、本流との合流点100mほど手前で左岸に渡る。その橋を地元では「トロ橋」と呼んだ。昭和30年代には「トロ橋」が残っており、下は深い渕となっていた。夏になると、子どもたちは「トロ橋」から那良川に飛び込み、肝試しをした。
森林軌道は、近くの肥薩線那良口駅まで延びていた。那良口駅前には日本通運の事務所があった。人力で回す起重機が置かれ、炭を保管する炭小屋が3棟建っていた。駅構内には貨物側線と木材積み込み用ホームが設けられ、那良川上流から搬出した木材や炭を国鉄の貨車に積み替え八代方面へと下った。

俣口地価の那良川の流れ

森林軌道の起点である白浜国有林には、営林署の官舎があった。那良口には、これら那良川流域で暮らす人々を相手にした雑貨屋や酒屋、衣料品店、鮮魚店があり賑わった。商店は那良川上流まで荷を背負い、行商に赴くこともあった。昭和29年度いっぱいで、白浜森林軌道は廃止となり、トラックが木材や炭を搬出することになった。
那良口から俣口集落まで自動車道を上った。俣口近くまで来ると谷が狭くなり、両側の稜線が近づく。自動車道から谷沿いの棚田への農道を下るとヤブランが点々と自生し、ちょうど花期を迎えていた。

那良川沿いの棚田の脇に咲くヤブランの花

五木内谷川と番立峠の木馬道

寛文4年(1644)、御用商人林藤左衛門正盛によって人吉・八代間の球磨川の舟運を開削されるまで、相良藩は八代との行き来に峠越えの山道を使っていた。
八代と峠で行き来できる五木村の内谷川沿には、番立(ばんたち)峠のほか、内谷峠、小屋谷越(こやんだにごえ)などの生活の道があった。番立峠は旧坂本村(現在の八代市坂本町)の坂本への山道。内谷峠を越えると旧坂本村川原谷、小屋谷越を越えると旧坂本村日光に出ていた。内谷川沿いの集落は、坂本とは頻繁に行き来があり、親しくしていた。五木からは峠を越えて山の産物を運び、坂本の辻や日光からはサツマイモなどを持ち帰った。
番立峠の上り下りには木馬道が設けられ、丸太や炭を運んだ。登りは木馬を牛に引かせ、下りは人間が引いていた。「なり木」と呼ぶ木馬道の枕木には、樫や栗を使った。木馬道に長さ1.5mほどの「なり木」を並べ、登りでは木馬をすべりやすくするために油を垂らした。
木馬のブレーキを「はじき」と呼んだ。通常は前に一人が立って木馬を引き、後ろの一人が「はじき」の棒でブレーキをかけながら坂道を下った。下りでは摩擦熱で木馬から煙が出ることもあった。丸太は八代の十條製紙まで運んだという。

山口集落近くの内谷川

内谷川沿いに登ると山口(現在の県道沿いの集落)で、その上流が古山口。さらに登ると千本杉(県道沿いのバス停名は番立)となる。千本杉から分かれた林道に入ると花立(はなたて)で、番立峠への五木側の登り口となる。花立からゆるやかな山道を登ると、雑木に覆われた番立峠にたどり着く。番立峠を下ると、辻、日田地(ひたち)を経て坂本の中心地に繋がっていた。
番立峠の往来が盛んな時代には、花立の人家が峠の茶屋の役目を担っており、峠越えの人たちは花立に立ち寄ってお茶を飲んで一服した。かつて、八代の妙見祭では仔牛の市が立ち、五木の人たちは仔牛を仕入れ、連れだって番立峠を越え帰った。
番立峠に残る石の祠

地元で聞くと「若い時は千本杉から肥薩線の坂本駅まで片道1時間少々で歩いた。千本杉から番立峠までは30分。番立峠から辻までは20分。辻から坂本駅まで20分の距離だった。最後に坂本まで歩いたのは50年ほど前のことになる」という。
山の人たちの生活に大きな役割を果たしていた峠道も、今は歩く人もまれで、人々の記憶から消え去ろうとしている。