三ヶ所内の口川と木地師の里

宮崎県五ヶ瀬町三ヶ所地区では、木地師(きじし)の末裔とされる小椋(おぐら)姓が、坂狩集落と長迫集落に残る。伝承によると、小椋氏は文徳天皇第一皇子惟喬(これたか)親王(848~897)を始祖とし、近江国(滋賀県)蛭谷(ひるたに)村・君ヶ畑(きみがはた)村を本拠地とする。木地師は手挽き轆轤(ろくろ)で椀や盆などの木製品を制作することを生業(なりわい)として全国各地を移動した。
三ヶ所の小椋家は、蛭谷村を本拠地とする筒井公文所支配下の木地師系統とされ、坂狩には「小椋酒店」の屋号を掲げる小椋家がある。
かつて、その「小椋酒店」を訪ね、三ヶ所小椋家の由来を尋ねてみたことがあった。それによると、小椋家は、江戸末期に四国伊予(愛媛県)から日向(宮崎県)延岡に渡り、三ヶ所内の口集落に居を構えた。内の口に仕事場を設けたのは、近くの二上山(標高1080m)のトチ、ブナ、ケヤキなどを求めてである。
内の口のやや下流から、三ヶ所川支流内の口川に入渓した。上流に進むと、内の口大師堂前に出てしまう。そこで、三ヶ所川との合流点へ向けて、下流へと移動してみた。左岸側は山の傾斜がややゆるやかで、棚田が連続している。

棚田の横を流れる内の口川

三ヵ所川との合流点近くまで下り、左岸に這い登ると、すでに棚田では田植えが終わっていた。近くには棚田と内の口を結ぶ農道がある。農道は山の中を抜け、いくつかの沢を渡る。集落に近づくにつれて谷が広がり、農道の脇ではホタルブクロやウツボグサの花が咲き始めていた。

農道脇に咲くホタルブクロの花

大ヤマメの内田川と御番所

「子どもの頃、クモやカエルを餌に30センチ、40センチのヤマメを釣っていた」。山鹿市番所(ばんしょ)集落の古老が語った内田川上流での思い出である。
「釣ったヤマメの食べ方は刺身や塩焼きにした。おもしろがってたくさん釣って帰ると、じいさんから『食べるしこしか釣るな』と怒られた。50センチクラスの大ヤマメもいたが、馬の尻尾の毛をよりあわせた釣り糸でないと釣り上げることはできないと言われていた」という。
山鹿市来民から県道9号を内田川沿いに上ると番所(ばんしょ)集落である。昭和10年代に馬車道が延びるまで、日田往還は矢谷(やたに)阿蘇神社鳥居前で内田川支流クワヅル川を渡り、番所の入口に出ていた。江戸時代、クワヅル川を渡った地点には、細川藩の「御番所」(ごばんしょ、関所)が置かれていた。

内田川クワヅル谷渡河点。渡った先に御番所が置かれていた

番所には地元で「荷おろし」と呼ぶ大岩がある。日田往還では牛馬の背に荷を積み、肥後と豊後間を行き来した。だが、番所まで来ると、大岩がせり出し道幅が狭い。「荷おろし」前でいったん荷をおろし、牛馬と荷を別々に通さなければ先へは進めなかった。
番所の上流が威(おどし)集落で、その奥は国有林となっている。地元で地名の由来を尋ねると「上流に『嫁おどしの淵』があって、昔は遠くから嫁いで来た女性に淵を見せて驚かせていた」という。

内田川上流の流れ

威からさらに日田往還を上り詰めると、宿ヶ峰尾(しゅくがみねお)峠。鯛生(たいお)金山の最盛期には、峠をコメや醤油、酒などを積んだ牛馬が行き来した。戦後も、多くの人たちが歩いて峠を越えた。相良(あいら)観音の春の大祭には、豊後方面から登ってきた多くの参拝者が、宿ヶ峰尾峠から番所や威へと下った。
威から県道9号線を峠まで自動車で登ると、峠に「宿ケ峰尾不動尊」があった。祠(ほこら)まで石段が築かれ、人の歩いた痕跡が残されていた。

 

中園川のアカチバエと鮎帰りの滝

「アユは板崎の堰を越えきらん。堰より上にはヤマメがいる。アカチバエと呼んでいる腹の赤いハヤなら、この川のどこにでもいる」。球磨川の支流、球磨村の中園川沿いで聞いた話である。
国道219号球磨村一勝地から中園川沿いに入り、板崎集落手前で谷に降りた。渓流は照葉樹に覆われ、川岸にはシダやスゲが繁茂している。

板崎の堰

板崎の堰は高さ4mほどで、アユが越えるには困難かもしれない。板崎の5km上流には8m、9m、5mの3段滝があり、地元では「三段轟」、「鮎帰りの滝」と呼んでいる。下流から遡上する魚類が、滝を越えることはまず不可能だろう。板崎の堰ができるまで、アユはここまで上っていた可能性がある。

鮎帰りの滝

「アカチバエと呼んでいる腹の赤いハヤ」の正体とはなにか。可能性のあるのは、ウグイとカワムツである。ウグイは、体長20~30cmで、日本全域に生息している。産卵期になるとオス、メスとも朱色の条線を持つ婚姻色に変わる。アイソ、アカハラ、アカッパラ、アカウオと呼ぶ地方がある。
カワムツは、体長10~15cm、生息域は本州中部以西である。成魚のオスは喉から腹にかけて赤色を帯びており、アカジ、アカンバエ、アカムツなどの地方名を持つ。ヤマメが住むような渓流域にも分布するとされる。果たして中園川のアカチバエはどちらなのか。

白髪岳源流西平川と皆越分校

訪れたかった場所がある。閉校となった上小学校皆越(みなごえ)分校(球磨郡あさぎり町)と白髪岳(標高1417m)を源流とする西平川である。
皆越は相良氏初代藤原(相良)長頼(1177~1254)が遠江国(とおとうみのくに)相良荘(現在の静岡県西部)から人吉に下向した際、長頼とともに安倍氏一族が移住定着した土地とされる。江戸期から明治28年までは皆越村、明治28年からは旧上村、そして平成15年には中球磨5町村の合併によって、あさぎり町皆越となった。
目的地の皆越分校は、明治17年に上村脇小学校分校として開校、昭和2年皆越尋常小学校、昭和22年上村立皆越小学校、昭和57年上村小学校皆越分校へと名称が変わる。そして、児童数減少のため平成23年3月に閉校する。

白髪岳の麓に残る皆越分校

清願寺ダム横の町道を登り詰めると、急に視界が広がる。白髪岳北面のゆるやかな傾斜地に皆越地区がある。分校は集落の中心地に近いところにあり、跡地はよく手入れされていた。運動場に立つと、薄雲のかかった白髪岳はすぐ目の前である。
皆越への町道から西平川沿いの林道に入るとヤマメの養魚場があり、立ち話をした。「西平川にはヤマメが放流されている。ヤマメ釣りが結構来る」という。養魚場のヤマメを見せてもらうと、体の側面に「木の葉・小判状」の斑紋模様(パーマーク)がはっきりとある。
西平川源流域にはあさぎり町の町有林が広がり、作業林道が白髪岳中腹へ向かって延びている。渓谷は照葉樹林が覆い、小さな渕が点々と現れる。水温は意外と低く、短い谷の割には水量が多い。林道の奥ではヒノキの植林地があり、抜けるとすぐに薄暗い森となる。そこにたった一本、真っ白な花をびっしりとつけた低木があった。近づくとハイノキの花が満開となっていた。

白髪岳を源流とする西平川

木山川と肥後の白山信仰

木山川(益城町)を遡ると、明るい小盆地にたどり着く。阿蘇郡西原村河原である。ここには、木山川を前に白山姫(しらやまひめ)神社がある。全国の白山神社の総本山である白山比咩神社(石川県白山市)と呼び名は同じである。河原の白山姫神社の由来は次の通りである。白山比咩神社との関わりが示されている。

益城町と西原村の境あたりの木山川には渓谷の趣がある

「後花園天皇の御代宝徳2年(1450)、肥後守護阿蘇大宮司阿蘇惟村公の勧請により阿蘇家家臣緒方山城守経正(緒方家2代)が、白山信仰総本山である石川県の白山比咩神社から御分霊し、菊理姫命(くくりひめのみこと)を白山姫大神として村内の鎮守神として現在の小野の地に祀ったのが始まり。天文15年(1546)河原城主津留大炊介が神社の御論によって奉移、現在地に社殿も祀ったが、天文18年(1549)河原城は落城、津留大炊介も当神社で自害する」
これによると、白山信仰は阿蘇氏・阿蘇神社との関わりで肥後の地に勧請されたことになる。由来にある最初の建立地小野は、現在地より2㎞ほど南方の集落で、阿蘇南郷谷へ通じる地蔵峠の登り口にあたる。現在も集落奥の杉林の中に「白山姫神社旧地」の石碑が残されている。

白山姫神社旧地

熊本においても、白山信仰にかかわる地名や神社はいくつか見られる。八代市泉町の釈迦院近く、現在の白山頂上直下にあるのが白山権現である。同社の名は寛文9年(1669)以前に成立したとされる『肥後國八代郡金海山大恩教寺涌出釈迦院縁起』に出てくる。熊本市国府4丁目には白山神社がある。この地は肥後国の初期国庁域の東南隅にあたると言われている。また、熊本市和泉町には赤水白山比咩神社がある。山城国(現在の京都府南部)愛宕山白山権現からの勧請とされている。
東国を中心に広まった白山信仰が、遠い肥後にも存在することは一つの謎である。

緑川鍵の戸橋と塩の道

山都町吹の戸(ふきのと)集落へつながる舗装道路から、旧鍵の戸橋への廃道を下ると、苔むした石組の橋台の跡が見えてくる。橋台の直下は狭隘な滝の落ち口となり、落差6、7mほどの滝がある。恐る恐る川岸の崖の際まで身を乗り出して覗くと、暗緑色の淵が見えた。

吹の戸への途中、鍵の戸橋の橋台跡の石垣が残る

椎葉と結ぶ塩の道である向霧立越(那須往還)が、緑川を渡る地点は2ヵ所あったとされている。ひとつは、囲(かこい)集落(旧矢部町菅)下の「鮎の瀬」の浅瀬。もうひとつが、汗見(あせみ)集落(旧清和村木原谷)を経て、鍵の戸で緑川右岸へ渡るコースである。
汗見でこんな話しを聞いた。「牛や馬を引いた椎葉からの駄賃付(運送業者)は、汗見から木原谷に出て、鍵の戸で川を渡り、浜町(旧矢部町)まで行った」。
駄賃付たちは、九州脊梁の尾根道をたどり、椎葉から山の産物を運んでいた。浜町(山都町)にたどり着くと、今度は塩や醤油などの調味料、酒、米、日用品を牛や馬の背に積み、再び尾根道を椎葉に帰った。
戦後、鍵の戸には木造の鍵の戸橋が架かり、汗見・木原谷と浜町を結ぶ馬車道として利用されていたが、「だいぶ昔に腐れて落ちてしまった」という。
駄賃付のコースをたどるように、吹の戸から緑川を離れ、丘陵地帯を登ると、空は大きく広がる。棚田の縁ではキケマンの花が咲き始めていた。

陽当たりのよい棚田の脇にキケマンの花が咲いていた

鴨猪川と失われた山の暮らし

緑川支流内大臣川とともに戦前から大規模な森林開発が行われたのが、鴨猪(かもしし)川である。
内大臣川沿いに敷設された森林軌道は、国見岳(標高1739m)手前の広河原(ひろこうら)まで延びていたが、途中の角上(かくあげ)で鴨猪谷支線が分岐していた。
鴨猪谷支線は昭和元年(1926)に開設。角上から内大臣川右岸を下流側に向かって斜めに登り、稜線を越えて鴨猪谷に入っていた。最終的には総延長14,752mに及び、宮崎県境の三方山(標高1578m)直下まで延びていた。

前日の雨で笹濁りとなった鴨猪川

鴨猪谷支線が稜線を越える位置には中尾集落があった。20年前に訪れた時には、一軒の廃屋が残り、裏手には墓石群とともに氏神様の祠が新築されていた。さらに、中尾集落から緩やかな尾根を登った地点には大平集落があったが、人家跡の石組みだけが残り、あたりは植林地となっている。
昭和55年3月、緑川流域最大の開発拠点であった矢部営林署内大臣事業所が閉鎖。それに先立つ昭和42年には、鴨猪谷支線が廃止されており、鴨猪谷での営林事業も終焉を迎える。同じ時期、大平、中尾からも人の姿が消え、山の暮らしも失われることになる。
梅雨開けの8月、鴨猪川を訪れた。囲(かこい)集落を抜けて鴨猪林道に入ると、菅(すげ)、白糸、浜町、下名連石(しもなれいし)を見渡す高台に出る。さらに、谷奥へと向かうと、中尾集落跡へ繋がる作業林道が右手に分かれる。その林道も鴨猪林道も、かつての鴨猪谷支線軌道跡を広げて設けられたものである。
その日、鴨猪川は前日の大雨で笹濁りとなっていた。しかし、鴨猪林道をさらに奥まで入ると、陽当たりのよい斜面でコオニユリの花が風に揺れていた。

鴨猪林道沿いに咲くコオニユリの花

五家荘西の岩川とオウレンの謎

五家荘(八代市泉町)仁田尾の渓谷で不思議なものを見た。スギの植林地に挟まれて、シロモジやイタヤカエデ、ヒナウチワカエデ、フサザクラ、イヌシデ、カツラなどの広葉樹が茂った斜面であった。猫の爪のような実を同心円状に付け、実の下に緑の葉が展開している。植物図鑑で調べると、キクバオウレンであった。

広葉樹に囲まれた西の岩川の流れ

キクバオウレンは、深山の林内に生える常緑多年草で、乾燥させた根(黄連)を漢方薬として使う。苦味健胃、整腸、止瀉等の作用がある。分布は北海道・本州・四国とされ、本来九州には自生していないとされる。

西の岩川で見たオウレン

西の岩川上流の谷内集落で朝日(わさび)峠のことを聞いた。明治35年大日本帝国陸地測量部発行5万分の1地図『原町』では、西の岩川源頭に「瀧首」の地名が記されている。ところが、昭和31年国土地理院発行5万分の1地図『砥用』では「ワサビ」とされ、さらに平成11年国土地理院発行2万5千分の1地図『葉木』では「朝日峠」となっている。
かつて、西の岩川上流域の人たちは、八代市泉町の中心地柿迫との往来に朝日峠を利用したが、峠から北へ伸びる尾根にも原町(旧砥用町中心地)につながる山道があった。
谷内集落で朝日峠の昔話を聞くうちに、オウレンの話題となった。「50年ほど昔、特産林産品として五家荘でオウレンの栽培が推奨された」という。製薬会社が乾燥根を買い取るということであった。当時、オウレンだけでなく、トチバニンジン(竹節人参)やキハダ(黄檗)も導入された。西の岩川渓谷で見たのは、林産品として栽培されていたオウレンの子孫であった。

深水川と走水の滝の巨大マダラ

球磨川と深水(ふかみ)川の合流点に架かる川口橋のたもとから河原に降りると、浅瀬に2本の丸太を渡した木橋が架けられていた。

深水川に架けられた丸木橋

深水川沿いの県道は、集落の奥で支流走水(はしりみず)川を右に見下ろすように登り始める。さらには走水川の源流を越え、五木村山口に繋がる。その途中に「走水の滝」(別名白滝)がある。ここには、巨大マダラ(ヤマメ)伝説が残る。
伝説のあらましは次のようである。「孫与巳(まごよみ)という人物が走水の滝の上で釣りを楽しんでいた。あまりの気持ちの良さに、ついうたた寝をしていると紅い大きなマダラが、深いツボキ(渕)の泡の中から、花が咲いたように浮き上がり、釣り針をくわえ、勢いよくツボキの中に身をひるがえしてしまった」。孫与巳は、渕の中に吸い込まれてしまい、後にはわらじだけが残された。それ以来、滝上の渕は「孫与巳渕」と呼ばれるようになった。

走水の滝

落差100mを超す魚止めの滝の上流に、なぜ大ヤマメがいたのか。魚止めの滝を越えてヤマメやイワナが生息している事例は、全国各地に見られるという。職業釣り師による人為的な放流のほか、大洪水時に魚類が分水嶺を越え移動したケース、河川争奪(隣接する河川で一方の浸食力が極端に強い場合、奪う側の河川の源頭が上流へ浸食して分水嶺を移動させ、隣接河川の上流域をすべて奪う)による源流域の変化などが考えられている。
「走水の滝」を遠望しながら、五木村山口で聞いた話を思い出した。「小学生のころ父親の運転するオートバイの後ろにしがみついて峠を越え、深水から八代の町までお盆の買い物に行ったことがある」という。山人たちが行き来した峠を、かつて大ヤマメも越えたのだろうか。

30年ぶりに再訪した壮絶の木浦谷

久しぶり訪れた木浦谷は、昔の面影が残っていた。木浦谷は、耳川支流の十根川(宮崎県椎葉村)の源流である。
30年前、木浦谷に入渓したのは、木浦谷の支流そごう谷を遡行して扇山(標高1661m)山頂をめざすためである。前夜、木浦橋のたもとにテントを張り、翌朝夜明けとともにそごう谷を登った。メンバーは4人。なるべく荷物を軽くするために、食料と寝袋だけを背負った。木浦谷本流ではなく、支流沢のそごう谷を遡行したのは、本流中段に険悪な大滝があると聞いていたからである。

木浦谷でヤマメを探ってみた

そごう谷には、高巻きするような悪所はなかったが、小滝が次々と現れ、滝の乗り越えでへとへとになった。結果的には、10時間ほどかけて霧立越(きりたちごえ)の主稜線に這い上がった。目的地の扇山小屋までは、さらにスズタケの茂った縦走路を1時間ほどヤブコギすることになった。
30年ぶりに木浦橋のたもとにやって来てみると、右岸の一部が伐採されている以外は、昔とさほど変わらぬ印象であった。沢沿いの斜面には、サイゴクミツバツツジが点在し、ヤマザクラも花期を迎えていた。足元では、コスミレが群落をつくっている。
木浦谷で知人が浅い淵をいくつか探ってみた。エサは、ミミズ、カワムシ、ヒラコ虫の3種をかわるがわる試した。流速のある淵ではアタリはみられないものの、木浦橋下の深目の淵では、どのエサでも頻繁にヤマメのアタリがあった。
そのうち、太陽が霧立越の稜線の上に顔をのぞかせ、山風が吹き始めた。空を見上げると、あたり一面を覆っていたイヌシデの新葉がかすかに風にそよいでいた。

木浦谷では3種のエサを試してみた