日光川と天水流れの千枚棚田

油谷川沿いの県道と別れトンネルをくぐると、日光(にちこう)集落まで登る舗装道となる。車道は、しばらく日光川左岸をたどるが、途中で右岸に移る。谷の両側は雑木に覆われた岩壁混じりの急斜面で、右岸側には古い石垣が連続している。

日光川の流れ。右岸に棚田の石垣の跡が残る

日光集落まで登ると、いきなり視界が大きく開け、天空が広がった。陽当たりのよい緩傾斜地に石垣を築き、人家がかたまっている。
日光は、旧坂本村(現八代市)鮎帰地区の中で、最も早い時期に人が住み着いた集落とされる。記録によると嘉永6年(1853)には36戸215人が暮らしていた。平坦地がほとんどない稜線上の集落で、それだけの人口を維持できたのは、戦国時代以降築かれ続けた棚田群があったからである。
日光の棚田群は、「たくぼ」と呼ばれ、平均勾配20%の急斜面に232枚(総面積約2ヘクタール)が残る。「天水流れ」と呼ぶ水源が、日光の棚田を維持拡大してきた。

日光の棚田群。山水を引き込み、稜線上に石垣を組み田を拓いている

集落で棚田のことを尋ねた。「棚田も昔は千枚以上あったらしい。今は植林地だが、日光川までの斜面はすべて棚田だったし、谷奥にもずっと棚田が続いていた」という。
「昭和40年代までは、峠を越えて五木村山口の人たちがここまで物々交換によく来ていた。日光川沿いに登る車道ができるまでは、川沿いに麓に下るよりも、谷向こうの辻や木々子(きぎす)との行き来のほうが多かった」という。辻も木々子も、日光と同様な山間の集落である。かつては、尾根伝いや峠越えでの人・物の往来が盛んだったことがうかがえる。

吐の瀬五ヶ瀬川と小々波水神

五ヶ瀬町桑野内波帰(はき)から、県道(宮崎県)8号線のS字カーブを下りきると、五ヶ瀬川に架かる波帰之瀬橋のたもとに出た。橋を渡ると高千穂町である。
波帰之瀬橋を渡り五ヶ瀬川沿いに上流へ向かうと、もう一つの橋のたもとに出る。支流の川走(かわばしり)川に架かる県界(けんかい)橋である。全国には県境をまたぐ「県界橋」という名の橋がいくつかあるという。川走川の県界橋は、宮崎と熊本の県境に架かり、渡ると山都町吐(はき)の瀬である。

波帰之瀬橋から見た五ヶ瀬川。上流右手が県境橋と川走川との合流点

広々とした五ヶ瀬川と比べると、川走川は急斜面に囲まれ川幅も狭い。五ヶ瀬川との合流点には旭化成の「川走川第二発電所」がある。川底はフラットな岩盤に覆われ流れも穏やかだが、思った以上に水深がある。
吐の瀬で鳥居を見かけた。鳥居をくぐり農道を下ると、五ヶ瀬川沿いに水神さんが祀ってある。地元で名を尋ねると「小々波(さざなみ)水神さん」だと言う。
「水神さんでは、毎年10月第2土曜日と日曜日に子ども相撲を奉納している。近くの椛山(かばやま)に土俵を造って子どもたちが参加している」という。

小々波水神さん

水神さんの前から五ヶ瀬川を覗くと、川底に点々と白いものが見える。「子や孫たちが病気にならず今年も健康であることを願い、1月14日に水神さんから鏡餅を川に流している。ここではオキノコンゴウさんと呼んでいる」と教えてくれた。
水神さん前の淵を眺めていたら、2匹の大鯉がゆっくりと泳ぐ姿が見えた。

湯浦川源流の幻のヤマメ

湯浦川(芦北郡芦北町)でヤマメが釣れるという話を聞いた。中流の古石(ふるいし)地区でヤマメについて尋ねた。「ハエやナマズ、地元でハチフイと言っているひげのある黄色い川魚もいる。ここではヨシノボリのことをズイと呼ぶ。昔はズイをウナギ釣りのエサに使っていた」。河口に近い豊岡地区にはアユが上るとされているが、「アユを釣る人を見かけたことはない。テナガエビなら多い」。
上流の古道集落でもヤマメのことを聞いた。「昔の湯浦川にはウナギが多かった。家の前に大きな淵があってウナギボテで獲っていた。カワガニもよく食べた。カボチャのナカワタ(種のあるやわらかい部分)を石の間に置いておくとカワガニが集まってきた」。ヤマメについては「数年前まで釣竿を持って川の中を歩いている人を見かけたことがある」という。

照葉樹と落葉樹が混在する湯浦川中流域

最上流の石間伏(いしまぶし)集落まで登り、ようやくヤマメの消息をつかむことができた。「以前は地区の2軒でヤマメとマスを養魚していた。ヤマメは養魚場から逃げ出したものだろう。今でも釣れるはず」と教えられた。
石間伏の奥まで登り、細流となった湯浦川源流を確かめてみた。源流は古石国有林の暗い森からしたたるように流れ出している。国有林の入り口では、アオキが鈴なりの赤い実をつけていた。

湯浦川上流の流れ

都々良川と大矢事業所の山の神

営林事業の拡大と「山の神」は結びついてきた。山林開発が山奥へ延びるにしたがって、「山の神」によって設定されていた境界線を越えて、人々が暮らすことになる。これによって、これまで開発の手が及ばなかったような奥山にも「山の神」が祀られた。
阿蘇南外輪山麓の大矢、緑川源流白岩集落、内大臣川内大臣集落、山出(やまいで)川千間(せんげん)集落、八勢(やせ)川吉無田(よしむた)集落などで、そのような「山の神」が見られる。
山都町大矢(現山都町)官山(国有林)で山林開発が始まったのは、昭和期になってからである。麓の稲生野(いねおの)から5㎞ほど奥地の東大矢に、矢部営林署大矢製品事業所が設けられ、作業員のための住宅が20軒ほど建ち並んだ。その事業所跡近くに「山の神」が祀られている。

大矢官山の入り口に祀られる山の神

稲生野から大矢官山に入り、都々良(つづら)川に架かる大矢橋を渡ると、林道は左に大きくカーブする。その右手の急斜面に「山の神」がある。大矢製品事業所で働く人たちが、官山での山仕事の安全を祈り祀ったものである。
林道からコンクリートの急な階段を登ると、露岩の下に石造りの祠が置かれている。その脇に2基の石灯籠が奉納されており、土台には「矢部営林署退職記念平成4年4月吉日建立」と彫られている。
大矢の「山の神」に手を合わせ、渓流まで下りてみた。春の日差しが川面に跳ね返り、目にまぶしい。雑木をかき分け川岸に出ると、対岸に大矢製品事業所の名残の石積みが残されていた。

渓流沿いに残る大矢事業所跡の石積み

雪の五ヶ瀬川と胡麻山越

車が鞍岡(五ヶ瀬町)に着いたころは一面の雪景色となっていた。鞍岡から本屋敷(もとやしき)まで登ると、時々雪雲が切れ、弱い陽光が差し込む。五ヶ瀬川の河原には雪が残るが、岸辺からは雪溶けの水蒸気が立ち上っている。雪はようやく止んだ。だが、椎葉につながる稜線は霧に覆われ、見通すことはできなかった。

五ヶ瀬川沿いに本屋敷まで上ると稜線もかすんでいた

西南戦争で西郷軍に加わった佐々友房が書き残した『戦砲日記』(青潮社発行)には、御船から退却した熊本隊について次のように書かれている。
「廿三日午時男成神祠ニ於テ招魂式ヲ行ヒ開戦以降、戦死者ノ英霊ヲ祭リ併セテ新隊編成ノ親睦ヲ表ス(以下略)」。明治10年4月23日、熊本隊は池辺吉十郎大隊長以下全員が男成(おとこなり)神社(山都町)境内に集まり、熊本隊の再編成を行っている。
翌4月24日、熊本隊は人吉を目指して行軍を開始する。25日には馬見原から五ヶ瀬川沿いに進み、鞍岡を経て本屋敷に向かった。本屋敷に到着した熊本隊は、佐々隊(佐々友房隊長)と北村隊(北村盛純隊長)に分かれ、佐々隊は胡麻山(ごまやま)越で椎葉胡麻山へ。北村隊は波帰(はき)川沿いに登り、霧立(きったち)越で椎葉尾前(おまえ)に抜けたとされる。
かつて、佐々隊が越えた胡麻山越を歩いたことがあった。本屋敷から林道をたどり、さらに稜線に沿った山道を歩くと、スズタケの繁った胡麻山越にたどり着いた。戦前期まで椎葉からの駄賃付けが行き来していたとされる峠には、割れた甕が土に半分埋まったまま残されていた。

胡摩山越に残されていた割れた甕

緑川津留の穴ん口と箕つくろい

上益城郡旧矢部町(現山都町)在住の郷土史家、井上清一氏の書き残した『山窩物語』(同人誌『舫船』)に、次のような一節がある。戦前期の情景である。
「箕(み)つくろいの集団が矢部を通過するのは5月20日頃で、必ず西から矢部に入って、東へ抜けていたようである」。集団の顔ぶれが変わっても、通るコースは決まっていたという。
穀類の選別器であった箕は、かつては全国どこの農家でも備えていた必需品であり、製作には高度な技術が必要だった。
『山窩物語』によると、箕つくろい集団が通るルートは3つあったという。砥用町(現美里町)から緑川沿いに上り、旧矢部町目丸・津留・囲から旧清和村(現山都町)木原谷へと抜けるもの。甲佐町早川から御船町水越を経由して、旧矢部町千滝、旧清和村米生へのコース。御船町木倉から旧矢部町長谷・金内・下名連石、旧清和村鶴底を通り、旧蘇陽町(現山都町)の柏に至る道筋である。いずれも、途中の集落で箕の販売や修理をしながら、数日かけて移動していた。

緑川沿いの津留本村。すぐ上流左岸に「穴ん口のお宮」がある

箕つくろいの通過点である山都町津留の対岸に、地元で「穴ん口のお宮」と呼ぶ大きな岩屋がある。津留の古老によると「大雨の日には旅芸人や乞食、箕つくろいの人たちが、岩屋に雨宿りしたり泊まったりしていた」という。箕つくろいたちは、津留本村の神社境内に道具を広げ、注文を受けて箕を作ったりつくろいをして、「穴ん口のお宮」を宿泊に利用していた。
岩屋を訪ねてみると、内部は砂地となっており、小さな観音堂が建てられていた。岩天井は高く、奥行きもかなりある。よほどの暴風雨でない限り、雨が吹き込むことはなさそうである。かつて、ここで「箕つくろい」たちが野宿していたのである。

穴ん口のお宮

真夏の楮畑川と開拓団の村

菊池市立門(たてかど)から県道25号線(原立門線)に入り、10分ほど車を走らせると、杉生(すぎお)集落との分岐点である。ここまで来て、ようやく右下に楮畑(かごはた)川の流れが見えた。
林を抜けて川岸まで下りると、水面にはまだ陽光は差し込んでいない。渓谷を包む樹林帯は前日の雨でしっとりと濡れたままである。浅瀬に立ち込み、水流に足をとられないよう踏ん張ってみた。8月初旬にもかかわらず水温は意外と低い。

朝もやの中の楮畑川

楮畑川上流には、杉生、楮畑の2地区がある。いずれも、開拓事業で誕生した集落である。楮畑川流域では、戦後、開拓団の入植によって農地が新たに開発され、人口増がもたらされた。
楮畑川下流の立門地区においては、開拓事業の拡大とベビーブームによって昭和30年代に児童数が急増し、地元の水源北小学校では生徒数が400名を超える。だが、ベビーブームが去り、開拓団の離村も重なった昭和40年代には100名台へ減少。さらに、昭和46年には水源北小学校杉生分校が廃校となる。
楮畑川を遡上すると、川岸にオオキツネノカミソリの花が点々と現れ、その奥で階段状の小滝に阻まれた。小滝の脇を伝って県道まで這い上がると、すでに真夏の太陽が真上まで昇っていた。

楮畑川源流に咲くオオキツネノカミソリ

汗の平谷とニガコベ谷のバイケイソウ

五家荘(八代市泉町)樅木(もみき)から、汗の平谷を遡行して上福根山(標高1645.4m)山頂を目指したものの、時間切れで撤退したのは30年以上も昔である。その時の記憶のほとんどは失われたが、鮮明に思い出す情景がある。バイケイソウの花が満開だったことである。
バイケイソウ(梅蕙草)は、ユリ科シュロソウ属の多年草。北海道・本州のほか、九州の山地・亜高山にも分布する。花はウメの花、葉はシンビジウム属の一種、蕙(ケイ)蘭に似ていることからこの名がついたとされる。涼やかな大葉も特徴的であるが、7月ごろ満開となる緑白色の花の印象は強烈である。
記憶を頼りに、小雨の降る汗の平谷に入渓した。砂防ダム脇から谷沿いの山道をたどると、砂利が堆積した河原となり、小さな堰で踏み跡が途絶えた。しばらく遡行したが、増水した渓流に危険を感じて早々と引き返した。

小雨のもとでやや増水した汗の平谷

バイケイソウと再会したのは、樅木からの帰路であった。樅木から椎葉村尾前につながる峰越林道を車で走ると、眼下のニガコベ谷につながる斜面にバイケイソウが点々と自生している。そのうちのいくつかには、緑白色の花が満開となっていた。
斜面を降りて、ようやく出会ったバイケイソウの花をしげしげと眺めると、下部の雄花が自重で垂れ下がり、すでに盛りを過ぎていた。

ニガコベ谷で見つけたバイケイソウの花

平野谷の幻の轟と銅鉱山

五木村の新五木川発電所横から林道北西谷線に入ると、平野谷の奥へと向かう。しばらく登ると、林道は落石によって突然行き止まりとなった。だが、谷底からは渓流の水音が響いている。
林道奥で出会った老人は、和蜂の巣箱の手入れに来ていた。立ち話をすると「砂防堰堤が出来る以前、この谷には地付きのヤマメがたくさんいた。放流ものと違うのは口が大きいこと。産卵時期にはヤマメは平野谷を下る。昔は竹で作ったウケを瀬に仕掛けていると大きなヤマメがたくさん獲れた」という。

二次林に挟まれた平野谷の流れ

林道が開削される以前、平野谷沿いには山仕事の道があり、白髪岳(標高1244m)直下まで延びていた。「谷奥には大きな滝が2つあり、上の轟(とどろ)、下の轟と呼んでいた。今は昔の山道は絶えてしまい、滝の近くまで行くことさえも難しいだろう」という。
老人は「私が若いころ、平野谷には銅山があった。谷沿いに索道を張って、鉱石を本流(川辺川)との合流点近くまで降ろしていた」。平野谷の銅鉱山は、昭和20年代まで存続したという。
平野谷からの帰り、近くの平野集落に立ち寄った。川辺川沿いの国道から急な自動車道を上ると、道路脇にイワタバコの花が咲き乱れていた。集落まで登ると五木阿蘇神社の横に出た。社の目の前には文化4年(1807)に平野で生まれ、江戸相撲で活躍した大関熊ヶ嶽の墓が建っていた。

平野集落へ上る自動車道脇にイワタバコの花が咲いていた

宇那川と西郷軍の半助台場

西郷軍が人吉城下に入ったのは、明治10年(1877)4月28日のことである。人吉では、旧相良藩士を中心とした人吉一番隊(神瀬鹿三隊長)が結成され、川尻などで薩軍として戦っていた。人吉に到着した西郷隆盛は、永国寺に本陣を構え、人吉二番隊(菊池淡水小隊長)、人吉三番隊(相良淡海隊長)を編成する。
このころ、官軍側は、別働第二旅団と別働第四旅団が、万江(まえ)越道、照岳道、五木越道、五家荘越道、種山道、球磨川道、佐敷道の7つのルートで人吉への侵攻を目指していた。
人吉市内から山江村に入り、万江川沿いの県道17号線を上流へ向かった。柚木川内(ゆのきごうち)、屋形、小鶴、六沢(ろくそう)を過ぎると、宇那(うな)川との合流点吐合(はけあい)。吐合から宇那川沿いの道を尾寄崎(およりさき)へ遡った。

万江川から支流宇那川に入ると一気に谷が険しくなる

尾寄崎のヤマメ養殖場で西南戦争当時の言い伝えを聞いた。「横谷(尾寄崎から東側に登った集落跡)の麓に西郷軍が掘った『半助台場』という壕があった。だが、今は草に埋もれてしまい、見つけ出すのは難しいだろう」という。
官軍は万江越道と照岳道を併進する。このうち、万江越道では、肥後峠、榎峠、国見峠の3方面から万江川沿いに進み、水無と大河内を攻略している。結局、侵攻ルートからはずれた「半助台場」では戦闘は行われなかった。
宇那川から本流沿いの県道まで戻るころには、陽光もかなりやさしくなった。万江川沿いに下ると、川遊びの子どもたちの姿があった。

本流万江川は明るい陽光に満ちていた