川走川と飛翔するヤマメ

「大師様」(弘法大師御堂)前から細い林道に入ると、スギ林を横切る切通しとなった。近くの水湛(みずたまり)集落(高森町)で川走川までの道を尋ねると、「軽自動車ならどうにか下れるが、道は狭い」と教えてくれた。
国道325号の奥阿蘇大橋を渡るたびに、眼下に見える川走川の川岸に立ちたいと思っていた。川走川は、柳谷川と白水川の合流点から、本流の五ヶ瀬川まで10キロほどの短い流れであるが、両岸が切り立った崖となり、容易には近づけない。
スギ林を抜けると、林道は垂直の岩壁に沿って一気に下り始めた。山水のしたたる岩壁には、イワタバコの新葉が群れ、川風が吹き上がってくる。路面の状態は思ったほど悪くはないが、道幅が狭い上に急カーブが連続し、曲がりの角度も厳しい。
下り切ると、突然あたりが明るくなった。川走川を渡る論地(ろんじ)橋のたもとに出た。左岸のすぐ上流には、川走川第一発電所の白い建屋が建ち、モーターの回る音がかすかに聞こえる。

急坂を下ると川走川第一発電所前に出た

川走川第一発電所は、昭和2年(1927)に旭化成によって設けられ、発電した電気は五ヶ瀬川河口の延岡などで利用されている。川走川には、このほか白水発電所と川走川第二発電所があり、いずれも旭化成ケミカルズの管理となっている。
河走川では4月から5上旬にかけて、水棲昆虫の羽化が始まる。すると、淵の駆け上がりや流れ込みで、ヤマメが水面を飛ぶ羽虫を追う。一方で、羽虫を狙って飛翔するヤマメは、猛禽類の目標となる。
論地橋を渡ると、右岸を上る道は台地上の下山集落(山都町)まで通じていた。下山まで上ると陽光が燦々と注ぎ、棚田の脇でオドリコソウ(踊子草)が満開となっていた。

陽光に照らされるオドリコソウ

内大臣川に森林鉄道の痕跡を見た

旧矢部町(現上益城郡山都町)の内大臣渓谷では、国有林からの木材搬出に森林鉄道(トロッコ軌道)が活躍していた。内大臣森林鉄道は、大正4年(1915)度に西砥用町清水(現下益城郡美里町)から白糸村目丸(現上益城郡山都町)までの緑川線13,691mが開設される。それを皮切りに、昭和34年(1959)度までに、内大臣川広河原から甲佐町宮内の甲佐貯木場まで、総延長42,550mの森林鉄道が敷設された。

甲佐町宮内の緑川に残る内大臣森林鉄道鉄橋跡

さらに本線とは別に、内大臣川支流への小松谷支線(総延長414m)、西内谷支線(総延長6,674m)、北内谷支線(総延長1,235m)、隣接する鴨猪谷へ延びる鴨猪谷支線(総延長14,752m)が設けられていた。
内大臣林道を遡ると、険しい岩壁に沿って鉄道を敷設した痕跡が、現在でもかすかに残されている。支流谷を横切る場合は、かなりの急カーブとなり、トロッコを牽引する汽動車のターンテーブル(転車台)があった「二本杉」(五家荘入口の二本杉峠とは別)から奥は勾配がきつくなる。直線・平坦な軌道が続くことは、なかったのである。
曲がりくねった渓谷沿いに、どのようにしてレールを敷設したのか。下流から上流に向けて軌道は延ばされていったが、レールの曲がり具合は現地で調整された。その時に使われたのが、「甚九郎」と呼ばれる鉄製の道具である。
「甚九郎」でレールの2ヵ所を挟み込み固定し、中間点にネジ込み式の鋼鉄棒を垂直に当て、「甚九郎」先端の横棒を回す。横棒が回るとネジ込み式の鋼鉄棒が食い込み、テコの応用でレールに圧力をかけ、曲線をつくっていた。人力でも曲げられたのは、レールが一般鉄道用に比べ、かなり細かったためである。
9月になると内大臣渓谷には、かすかに紅葉の雰囲気が感じられる。渓谷を「二本杉」まで登ると、急に空気がひんやりとする。内大臣林道は、「二本杉」で右岸に渡り、東内谷を横切ると谷が広がる。その奥が森林鉄道終点の広河原である。

広河原では谷が広がる

佐敷川と塩浸の山太郎漁

芦北町中心地と球磨村を結ぶ県道27号から、大関山(標高902m)方面へ向かう県道270号へ入る。塩浸(しおひたし)で県道と別れ、農道を伝い佐敷川の流れ際まで降りてみた。

塩浸の佐敷川

川岸まで出るとモクズガニ捕獲用の籠が転がっていた。鉄製の丸籠に竹の「ウケ」を組み込んだ頑丈なものである。目の前の流れには、川を仕切った仕掛けが残されていた。下流に向かって丸石をV字形に並べ、先端に籠を置く仕組みである。
モクズガニは、全国的には「ツガネ」「ツガニ」「ヤマタロウ(山太郎)」などの地方名があるが、佐敷川では「山太郎」と呼ぶ。秋から冬にかけて、モクズガニは産卵のために海まで下るが、その時期を狙って、川を仕切った籠漁や魚の頭などを入れた籠を仕掛ける。
モクズガニは藻類を主なエサとしているが、カワニナやミミズ、小魚などの動物性のエサを食べることもある。塩浸で聞くと「ミミズを食べて大きくなった山太郎は、甲羅が10センチにもなる。今は、獲れるのはほとんどが5~6センチのものばかり。昔に比べると数も減った」という。

佐敷川に仕掛けられているカワガニウケ

モズクガニのカニみそは独特の濃厚な風味があり、昔から珍重されてきた。とくに卵巣の発達したメスが「うまい」とされる。塩浸では「うちでは塩と醤油で味付けして炊くが、味醂や味噌を加える人もいる」。
炊き方にもコツがある。「水から炊かないと甲羅や足が外れてしまい、食べにくくなる。じわじわと炊くのがいい」。地元では、「山太郎」を正月用に保存して食べることがあるというが、そんな習慣も年々失われようとしている。

黒峰川のアブラメと薬師堂

国道218号と別れ、県道を緑川水系大矢川支流の黒峰川に向かう。空気は湿っぽい。正面には黒峰(標高1283m)の姿が見えるのだが、奥に連なる九州脊梁の稜線は薄雲に覆われたままである。
鎌野(山都町、旧清和村)で県道を左折、黒峰林道へ入る。現在では、痕跡らしきものさえ見られないが、戦後しばらくの間、黒峰林道の奥では山仕事の人たちが集落を作り、木材の伐採と搬出を行っていた。
黒峰林道の奥、黒峰川を遡ると黒峰薬師堂がある。堂内には室町時代の作とされる一材造りの薬師如来座像が安置されている。薬師堂周辺はフラットな地形が広がり、石塔の残骸があることから、一帯は室町期の寺跡だと伝えられている。
橋のたもとから黒峰川へ降りる。長さ3mの竿に0.5号の道糸で、ミミズをエサに川魚を狙う。棚田の間を流れるあいだは、黒峰川もコンクリート3面張りの無愛想な流れだが、それでも竿を入れれば、アブラメとハエが次々と揚がる。釣り人に慣れていないせいか、ミミズを貪欲に追ってくる。

黒峰川の流れ

棚田の脇を遡ると、すぐに古い砂防ダムにぶつかる。左岸の竹林を遠巻きし、砂防ダムを乗り越すと、雑木林にはさまれた自然の流れとなる。両岸に覆い被さる照葉樹のおかげで、沢にはあまり陽が差し込まない。足元が暗くて水深がつかみにくい。
同行した小学生たちが、浅い淵に向けて竿を出すと、再びアブラメの入れ喰いとなった。先行していた釣り人が、ニコニコ顔で沢を下ってきた。手に提げた魚籠の中には、20㎝ほどのヤマメの姿があった。

黒峰川のアブラメ

美生川と嫁入り峠の三ッ尾根

高度経済成長期までは、たとえ山間の小さなコミュニティであっても、村と村を繋ぐ「婚姻のネットワーク」が存在した。今は、過疎化と少子高齢化で、そんなネットワークが失われて久しい。
氷川支流河俣川沿いの県道から美生(びしょう)川沿いの自動車道へ入ると、石垣を組んだ棚田群が現れる。川沿いに美生集落(八代市、旧東陽村)までのぼると谷が広がり、人家も増えてくる。

美生集落を流れる美生川

美生で古老に昔の暮らしぶりを尋ねると、球磨川支流の旧坂本村深水(ふかみ)とのつながりを教えてくれた。
「谷奥の峠を越えるとすぐに八代の深水。深水のなかでも九折(つづら)と岳(たけ)との行き来が盛んで、深水からたくさんのお嫁さんをもらっている。だから、今でも多くの家が深水に親戚がある」という。
自動車道が整備される以前の美生は、八代へ出るには河俣川沿いに下るよりも、峠を歩いて越えた方が便利だった。美生から深水まで、峠越えで1時間半ほど。ほんの50年ほど前まで、美生の谷で焼いた樫炭を背負って深水まで半日で行き来していた。
美生集落から、深水へつながる峠直下の小原(こばる)集落まで登ってみた。小原で峠越えの山道のことを尋ねると、稜線を指さして「峠のあたりを三ッ尾根と呼んでいた。尾根に上がる手前で三差路になっていて、まっすぐ登ると九折。左に登ると岳につながっていた。昔は瑞宝寺の和尚さんが、深水の門徒の家まで峠越えで通っていたし、深水から嫁いで来る女性は嫁入り道具を背負って峠越えしていた」という。
小原から戻る途中、美生滝へ立ち寄った。滝壺の水は深い濃紺色である。昔、深水から峠を越えてやって来たお嫁さんたちも、美生滝を目にしたのだろうか。

美生滝

笹原川こぶりが瀬の箕作り集団

昭和8年頃、浜町(現在の山都町)の和菓子屋に、箕(み)作りの親子が訪れる。「子供連れの箕作りの女房が観音笹で編んだ、茶碗籠を売りに来ました。見事な編方の良い出来でしたので、母は2個も買って、連れていた子供にと、妹の古着をやりました」。浜町の郷土史家井上清一さんが遺した『山窩物語』の一節である。
それから2、3日後のことである。清一少年は浜町から2キロほど離れた笹原川の「こぶりが瀬」に魚釣りに出かけ、赤い帯をした箕作りの女の子と再会する。夕方になると、箕作りの男たちや女房たちが、修理の箕を持って、「こぶりが瀬」に帰ってくる。女房は、古着をもらったお礼にと、男たちが獲った大きな鮠(はや)を20尾ほど清一少年の魚籠に押し込んでくれた。

笹原川「聖橋」上流の流れ

箕作り集団に興味を持った清一少年は、その後、彼らの足跡を追ってみる。「小峯村(旧清和村)の仮屋から、朝日村(同)の仏原へ、それから安方(同)から菅尾村(旧蘇陽町)に入ったまでは判明しましたが、それから先は何処に行ったか全くわかりません」(『山窩物語』)。箕作り集団の足跡は、馬見原(山都町)近くでプツリと消える。
地図をもとに、いろいろと考えた末、浜町から2キロほど離れた笹原川に架かる石橋「聖橋」上流を「こぶりが瀬」と推理した。「こぶりが瀬」は、清一少年が箕作り集団を再び見た場所である。
80年後の肌寒い日、「聖橋」の上流に降り立った。谷の両側は切り立った岩壁となり、両岸から杉木立や竹林が迫る。杉林の中のかすかな踏み跡をたどると、川岸近くに箕作りの女房が茶碗籠の材料としていた観音笹(オカメザサ、別名豊後笹)が茂っていた。

オカメザサ

椎葉向山川と駄賃付の向霧立越

椎葉(宮崎県東臼杵郡)と浜町(熊本県山都町)の間に横たわる2つの稜線は、重要な山の交易路であった。ひとつが、耳川源流向山(むかいやま)川沿いの椎葉村萱野(かやの)から登る「向霧立越」(むこうきりたちごえ)。もうひとつが、耳川源流東側の稜線に拓かれた「霧立越」である。
「霧立越」や「向霧立越」を使い、生活物資の運搬を請け負っていたのが駄賃付(だちんづけ)と呼ばれる山の運送業者である。向山日添(ひぞえ)集落の椎葉クニ子さんに、駄賃付のことを聞いたことがあった。駄賃付は、戦後になっても盛んに行われていた。
「牛にワラジを履かせて向霧立越を登った。馬は鉄(蹄鉄)を履いているので坂道では滑ってしまうので、駄賃付には使わなかった。戦後の昭和22年、夫が向霧立越で浜町に行った。日帰りはできないので1晩泊まり。帰りには焼酎の入った1斗半入りの瓶を、牛の背に振り分けて積んできた」という。
塩や食料品、日用品だけでなく、古着を仕入れることもあった。古着は解いて、赤子のおしめや子どもの着物に縫い直していた。
日添を出た駄賃付は、牛の背にコウゾなどを積み、萱野で向山川の左岸に渡り、渓流沿いに尾根へ向かう。標高1500mで主稜線上に到着、日当集落や尾前集落からの駄賃付の山道と合流する。坦々とした稜線を進むと、しばらくで五勇山(標高1662m)山頂である。

日添のソバ畑から見る五勇山(右奥)。中央奥は烏帽子岳

五勇山から真北に進むと国見岳(標高1739m)。さらに、高岳(標高1563m)、三方山(標高1578m)を経ると、ゆるやかな下りとなり、遠見山(標高1268m)山頂西側をかすめる。遠見山から一気に下ると、汗見集落(山都町)である。汗見から鍵の戸で緑川を渡河すると、もう浜町は近い。
かつての駄賃付にならい、萱野から「向霧立越」への山道を歩いた。登り口にあたる向山川の渡河点では、ツクバネソウが黒い実をつけ、アキチョウジ、アキノキリンソウ、シラネセンキュウの花が満開となっていた。

満開のアキチョウジの花

八勢川と観音堂の竹細工職能民

御船町九十九折(つづら)は、八勢(やせ)川上流に沿った古い集落である。源流の吉無田水源から九十九折までの清流にはヤマメが生息し、釣り人が時々訪れる。その九十九折には、かつて竹細工の職能民たちが定期的にやって来ていた。

八勢川の源流となる吉無田水源

大正生まれの九十九折の古老は、竹細工職人たちのことを覚えていた。「年に1回、秋になると観音堂に来ていた」という。九十九折の観音堂は、平成6年に地域公民館に建て替えられたが、それまでは板張り・縦3間半・横3間ほどの小さなお堂だった。
「来ていたのは60歳代の夫婦者で、籠や笊を作っていた。材料は近くにある観音笹で、品物は近くで売り歩いていたようだ。名前を聞くことはなかったし、どこから来ていたかもわからない」。夫婦者は、いつも1週間ほど観音堂に泊まって仕事をすると、何も言わずに姿を消していたという。観音笹とはオカメザサのことで、今も九十九折に自生している。
別の古老の記憶によると、戦後も竹細工の人を見かけている。ただし、観音堂に来ていたのは「若い男性だった」。家族連れではなく、いつも1人だった。戦前期に来ていた老夫婦とは別人である。
「どこから来ていたのかわからなかった。籠や茶碗メゴ、洗濯物入れなどを作っていた」という。その男性も昭和30年代になると、ぱったりと姿を見せなくなった。
熊本では移動竹細工職人のことを、「箕(み)つくろい」、「箕直しさん」、「カンジンさん」などと呼んでいたが、一般的には「サンカ」と呼ばれる人たちである。

公民館に建て替えられる前の九十九折観音堂

日本が高度経済成長期を迎え、プラスチック製品が急速に普及すると、地方の農山村でもプラスチック製の笊などが出回り、「竹箕」は必需品でなくなった。同じころ、熊本の中山間地を巡回していた竹細工の職能民たちは、忽然と姿を消すことになる。

氷川と塩売り勘兵衛の新道峠

五家荘(八代市泉町)から峠を越えて氷川流域へと運ばれた山の産物は、下流の宮原(氷川町)だけでなく、砂川下流の小川(宇城市小川町)にもかなりの部分が向かったという。
氷川沿いの下岳(八代市泉町)と砂川沿いの海東(かいとう)・小川を結ぶルートとして利用されてきたのが、八丁越、新道峠、榎坂の峠道であった。なかでも、「塩の道」として重要な役割があったのが、小川の商人塩売り勘兵衛によって拓かれた新道峠であった。

下岳を流れる氷川

新道峠によって小川と下岳が結ばれたのは、建武年間(1334)以前とされる。当時、砂川河口に近い小川には船着場が設けられ、長崎などから塩や鉄、肥料、干魚などが届いた。一方、砂川沿いのルートで下された山の産物は、八代海を経由して各地に運ばれた。
昔の砂川は、現在よりはるかに水量が多く、中流に位置する海東(氷川町)まで和船が遡っていたという。海東に残る「船尻」という地名は当時の名残である。
塩売り勘兵衛は、小川で塩や塩干魚を馬の背に積み、新道峠を越えて氷川側に下った。さらに氷川沿いに栗木(八代市泉町)・柿迫(同)まで遡り、子別峠(こべっとう)や三本木峠、笹越、朝日(わさび)峠を越え、五家荘、五木、さらに川辺川を下った四浦(球磨郡相良村)まで塩を運んだ。帰りには、茶や椎茸、雑穀、板類などを背負い、再び新道峠を越え、小川の船着場まで下った。これによって、塩売り勘兵衛は巨万の富を築いたとされる。
小川から新道峠への自動車道を上った。峠の真下はトンネルとなり、その脇から峠まで登るコンクリートの階段が繋がっている。急な階段を上り詰めると、峠には、「奉建立 安政六年 小川早萬屋又左衛門」と彫り込まれた石の祠が祀られていた。祠に手を合わせ、新道峠から氷川沿いの下岳へと下ると、森の香りがかすかに漂っていた。

新道峠の祠

合志川源流と最古のコンクリートアーチ橋

合志川を源流へ向けて辿ると、菊池市若木にたどり着く。鞍岳(標高1119m)の麓である。若木集落から合志川沿いの県道を下ると、弁利(べんり、菊池市旭志)で右岸に渡ることになる。県道には、自動車用の橋と並行して大正14年3月に竣工した姫井橋が残っている。姫井橋の設計・施工は、当時の隈府(わいふ)町外十一ヶ村土木教育財産組合。組合事務所は菊池郡役所内に置かれ、組合管理者は菊池郡長が務めていた。造林や木材販売などの公益事業によって、学校の運営や道路・堤防・橋の設置などの公共事業を行っていた。
それまで姫井には土橋しかなかったが、コンクリート橋が架かったことで、馬車が合志川を渡れるようになったという。そのため、地元では姫井橋を「馬橋」と呼び大切にしてきた。

合志川に架かる姫井橋

姫井橋が貴重とされるのは、熊本県内だけでなく九州でも唯一のコンクリート下路式アーチ橋(桁がアーチ下部に設置される)であること。コンクリート構造の下部式アーチ橋は、長野県を中心に四国・中国地方で数多く架設されていた。さらに、最古のコンクリート下路式アーチ橋は、昭和3年架設の奈良川橋(愛媛県)あるいは昭和8年の旭橋(神奈川県)ではないかとされてきたが、姫井橋はそれに先立って架橋されたことになる。
姫井橋のすぐ上流には川岸まで下りる階段がある。急な階段を下ると洗い場が設けられている。数年前までは川底から湧水が湧き出ていたが、今は洗い場にパイプが設けられていた。源流に近いせいか、川水の透明度は高く、川底にはクレソンが繁っていた。

合志川源流の湧水