楮木川と鍋割峠のサツマイナモリ

球磨川沿いの国道219号から、球磨村楮木(かじき)集落への自動車道を登ると、道は一気に高度を上げ、楮木川は視界から消えてしまう。
楮木から谷奥の川島集落までは、およそ6km。川島に近づくにつれて谷が広がり、山肌にはスギ、ヒノキの植林地が増えてくる。道沿いにスギの伐採地があり、車を止めて谷を見下ろすと石垣を築いて水田が開かれている。その先に楮木川の清流が見えた。
棚田の石垣の切れ目から河原に降り、ようやく楮木川の流れと出会うことができた。両岸を覆う樹林に遮られて水面は暗い。水量は想像していたよりも多かった。谷底は平坦である。

二次林の中を流れる楮木川

川島は、山の南斜面に50戸ほどの人家がかたまり、集落の最も高いところには、廃校となった小学校校舎と体育館が建っていた。
神瀬小学校川島分校が廃校となったのは、平成16年のこと。中学校は遠く、戦後しばらくまで、川島の子どもたちは鍋割峠を歩いて越え、球磨村の中心地一勝地まで通っていた。通学には片道3時間かかったという。
川島で昔の思い出を聞いた。「鍋割峠を越える時には、朝5時に家を出ていた。自動車道が整備されるまでは、家を新築する時も大変だった。瓦を人吉から貨車に乗せ肥薩線の瀬戸石駅で降ろし、渡し船で球磨川対岸の楮木に運び、それから人の背で川島まで運んできた」という。
かつて、川島の子どもたちが歩いていたという鍋割峠の山道も、現在は舗装道路となっている。自動車で鍋割峠まで登ると、道沿いの暗がりにサツマイナモリの白い花が点々と咲いていた。

鍋割峠に咲くサツマイナモリの花

緑川源流黒岩谷と森の霊気

緑川源流(山都町)黒岩谷は、幾度となく沢登りで訪れた思い出の谷である。谷の名は沢を詰め上がった岩峰黒岩(標高1582m)からついたとされる。
ヤマメ釣りは初体験という知人と舞岳(まいたけ)集落の山の神に安全祈願をしてから、国有林内を進んだ。緑川源流域は、戦後の大官山林道の開削によって急激に森林開発が進んだ。「大官山」とは、「広大な国有林」という意味である。大官山林道最奥の集落となった舞岳の山の神も、山仕事の安全を願って設けられたものである。

大官山舞岳の山の神様

梅雨明けの大官山林道は、落石もあり荒れ気味である。緑川の最源流に近づくにつれて、スギ・ヒノキの植林地から自然林へと変化する。緑一色の林道沿いでは、リョウブとノリウツギの白い花が目立った。
入溪した黒岩谷は盛夏らしく濃緑のトンネルの中にあった。林道橋から左岸の踏み跡を辿り、砂防堰堤脇を越えて源頭を目指した。両岸はカツラやイヌシデ、フサザクラ、サワグルミ、チドリノキなどの落葉広葉樹で埋め尽くされる。木々に覆われて、空を仰ぎ見ることもできない。
しばらくは流木の溜まった平坦な流れとなるが、すぐに右岸から段々滝が合流し、その奥からはヤマメの潜む小淵が連続する。しかし、緑のボリュームに圧倒され、竿を出すのも忘れてしまう。ただ、森の霊気に触れ茫然と佇むだけである。

緑に覆われた黒岩谷源流

馬見原五ヶ瀬川と竿渡村ノ瀧

滝上(山都町馬見原)集落のはずれからジュラルミン製の梯子階段を下り切ると、巨岩が累々と重なる川岸に出た。巨岩帯を抜けると平坦な杉の植林地となり、川に沿って石垣が築かれている。植林地を抜けると、五ヶ瀬川の川岸である。点々と横たわる大岩の間を抜けて上流へ向かうと、正面に竿渡(さわたり)滝の姿が見えた。容易に人が近づけない幻の滝である。
滝壺は巨大な円形だが、せせらぎの音がどこからも響いて来ないのは、水の動きがほとんど見られないためである。巨大な岩壁に取り囲まれたすり鉢状の空間を冬枯れの樹林帯が取り囲み、滝壺には落ち葉が漂っている。

静寂の中の竿渡村ノ滝

竿渡滝は、細川藩8代藩主細川斉茲(なりしげ)公のお抱え絵師、矢野良勝と衛藤良行が描いた『領内名勝図巻』に「竿渡村ノ瀧」として登場する。図巻では「高さ十六間半 幅三間程 瀧坪三反余」とされ、水量豊かに描かれている。現在は上流の馬見原に発電用の取水堰堤が設けられているため、流れ落ちる滝水の幅は、図巻と比べるとかなり狭く、水量も少なくなっている。

馬見原の旭化成取水堰堤

「竿渡」の名は、滝壺からの流れが竿をさして渡れるほどゆるやかだからとされる。確かに、図巻には竿で川底を探りながら渡る人の姿が描かれている。
地元で滝のことを尋ねると「昔は滝壺の対岸に1軒だけ人家があった。川岸の石垣は水田の跡だ」と教えてくれた。
梯子階段を登り馬見原まで戻った。馬見原橋を渡ると、曇り空の下で五ヶ瀬川のせせらぎの音がかすかに響いてきた。

椎葉谷川と落葉に埋もれたワサビ田

九州脊梁(中央山地)に点在する「椎葉」(しいば)の地名には、共通の意味があるのだろうか。耳川上流の宮崎県椎葉村が、最もよく知られているが、熊本県側においても、球磨川と川辺川に「椎葉」の地名が点在する。
球磨川本流では、球磨郡水上村小川内(おごうち)川最上流に椎葉の地名があり、川辺川流域では、球磨郡相良村椎葉とともに五木村平沢津谷上流の椎葉が知られている。さらに、川辺川を遡った五家荘(八代市泉町)には、椎原(しいばる)の地名が見られる。このほか宮崎県西都市の一ツ瀬川流域尾八重(おはえ)にも大椎葉(おおしいば)の地名が残る。「しい・ば」とは「しひる」という崩壊地や痩せ地を意味する言葉から来ているともされる。
10数年ぶりに訪れた相良村椎葉の風景は、さほど変わっていないように感じた。国道445号から分かれ、椎葉谷川沿いに上流へ向かうと椎葉集落である。集落で、地元で取り組んでいたワサビ栽培のことを聞いた。「5戸で組合をつくって、谷の上流にワサビ田を開いた。数年続けたが、大水で泥が流れ込んでワサビ田が埋ってしまい、今ではやめている」という。

自然林の中の椎葉谷川

記憶を頼りに、谷沿いの車道を上流へ辿ると、谷が急に狭まり、落葉樹混じりの照葉樹の森となる。上流へ向かうにつれて、両岸の傾斜が険しくなり、小滝が次々と現れる。谷の奥はやや広がり、そこにワサビ田の跡らしい石組が見えた。だが、青々としたワサビ葉に覆われていたワサビ田はすっかり落ち葉に埋まり、今では渓流の風景に融け込んでいた。

土砂に埋もれた椎葉谷のワサビ田

平沢津谷と「しんぼうどうざん」

栗木(八代市泉町)で聞いた五木村平沢津(ひらさわつ)の「しんぼうどうざん」の話が耳に残っていた。「しんぼうどうざん」とは、一体なにか。
梅雨に入ってすぐ、子別峠(こべっとう)を越えて平沢津谷に入渓した。急斜面を雑木につかまり、滑り落ちるようにして川岸まで下った。流れは意外とやさしいが、しばらく遡行すると、突然岩壁に挟まれた淵や小滝が現れる。

小滝や小渕が連続する平沢津谷

平沢津谷からの帰り、上流の椎葉集落で、「しんぼうどうざん」を知る老人と出会った。老人によると「しんぼうどうざん」とは新望銅山のことだという。
新望銅山は昭和9年に株式会社として発足。旧深田村(現あさぎり町)の岩屋銅山を高田商会(戦前の大手商社)から引き継いだ。そして、昭和13年からは平沢津谷でも採掘を開始、昭和17年か18年ごろまで存続したとされる。
平沢津谷の新望銅山には、鉱山事務所、社宅、飯場があり、椎葉集落にまだ電気が来ていない時代に、宮園(五木村)から電気を引いていた。「事務所前の広場で活動写真が映写されることがあって、地元の者も見に行ったことがある」という。
当時、椎葉集落の人たちも臨時の鉱夫として働くことがあったが、「朝鮮半島から来た人夫や女性の選鉱婦がたくさんいた。坑内は人が立って歩けるほどの広さで、発破にマイトを使っていた」。
削岩機で掘った鉱石はトロッコで搬出し、索道で尾根を越えて栗木に運んだ。さらに、瀬戸内海の四阪(しさか)島(愛媛県今治市)や契(ちぎり)島(広島県大崎上島町)まで運び、精錬していたとされる。
老人に聞いて、銅山跡地まで辿ってみた。土砂で埋まった鉱口の周りではウツギの白い花が満開となっていた。

新望鉱山跡に咲くウツギの花

木護川と消えた野猿の群れ

木護(きご)川は、旧上津江村(現日田市)との大分県境から菊池市立門(たてかど)までの5㎞ほどの短い谷だが、源流域は菊池渓谷に隣接した広大な山林地帯となっている。立門から川沿いの舗装道路を遡ると、しばらくはスギ林に覆われているが、照葉樹主体の自然林が増える。

自然林に挟まれた木護川の流れ

谷は狭いが、水量は豊富、流れは比較的ゆるやかである。苔の乗った丸石が多いのは、水害などで谷が荒れていないおかげだろう。
川沿いに上流に向かうと、思いかけず大きな淵が現れた。広さは小学校のプールほど。水深は3、4mはありそうである。それでも淵の底が目視できるほど木護川の透明度は高い。

木護川上流のドン深の淵

立門から3㎞ほど上流で舗装道路は川沿いを離れ、木護集落に登る。南向きのゆるやかな斜面に棚田が広がり、棚田と山林に囲まれて人家が点在している。標高600mの高地だが、陽当たりはよい。
昭和20年代までは、菊池渓谷を中心とした県境地帯に野猿の群れがいたという記録がある。木護集落で野猿について聞いた。「戦後、県境の原生林を伐採したあとに、猿が餌を求めて麓に下りるようになった。30年ほど前には菊池渓谷の奥で猟師が猿を撃とうとしたが、相手と目が合ってしまい、かわいそうになって撃てなかったらしい」。だが、「最近は木護にも離れ猿が出ることもなくなった」という。
木護集落から立門まで戻ると、陽光が石橋立門橋を正面から照らし、石橋のたもとにはタンポポの花が咲き誇っていた。

小さで川に見た最後の尺ヤマメ

明治43年(1910)、旧人吉営林署管内で最初の森林鉄道(森林軌道)である段塔(だんとう)林道が敷設された。その後、球磨・人吉地区では白浜林道(球磨村那良川流域)、大塚林道(人吉市胸川流域)、矢岳林道(人吉市大川間川流域)にも森林鉄道が設けられる。
人吉市上田代町に「土場」(どば)の地名が残されている。上田代地区から小さで川沿いにさかのぼると、かつての段塔町に至る。戦後しばらくまで、段塔町一帯は森林開発で賑わい、小さで川流域で伐採された広葉樹が「土場」に集積されていた。
「トロリーに積んだ丸太を森林軌道で土場まで降ろし、トラックで営林署のあった人吉市南町の貯木場へ運んだ。段塔までの帰りは登りになるので、空のトロリーを木炭機関車が引いていた」。ただ、段塔林道に木炭機関車が導入されるのは戦後のことで、それまでは「下りはトロリーの後ろに馬をつなぎ、帰りは馬が空のトロリーを引いた」という。
段塔から森林軌道が撤去されたのは、昭和30年代になってからである。国有林での森林伐採・植林作業が終結すると、段塔町からは人の姿が消えた。それに伴って、昭和51年(1976)3月には大畑小学校段塔分校が閉校となる。

小さで川の流れ

上田代から段塔林道を上流へと進むと、4キロほどで左下に段塔分校の跡地が見える。分校跡まで下ると、運動場だった広場の脇に「人吉市立大畑小学校段塔分校跡地」の石碑が建っていた。
広場を抜けると、すぐに小さで川の流れである。川岸に出ると、釣り人の足跡が上流に向かって続いている。しばらくすると、釣り人が戻って来た。今日は今年のヤマメ漁期最後の休日である。釣り人は小さで川で今年最後の尺ヤマメを釣り上げていた。

釣り人は尺ヤマメを釣り上げていた

回想久木野川と涙の別れ石

「6月から9月は、ウナギテゴや竹竿の仕掛けでウナギをとっていた。10月になるとカワガニもとれた」。今から50年以上も昔、水俣市久木野で少年時代を過ごした知人の回想である。
梅雨期に入ると、水俣市久木野の雑貨店の店先には、竹製のウナギテゴがぶら下げられた。子どもたちは小遣い銭を貯めてウナギテゴを買い、久木野川の浅瀬で仕掛けた。小枝やコケでウナギテゴを覆い、入口を下流側に向けておくと、水俣川河口から上ってきたウナギが入り込む。

前日の大雨で増水した久木野川

「夕方のまだ明るいころに仕掛ける。翌朝になって引き上げると、ずしりと重く、中でウナギがゴソゴソと動き回るのがわかる」という。一つのウナギテゴにウナギが10匹も入っていたこともあった。
竹竿の仕掛けでもウナギがよく捕れた。長さ1、2mほどの細竹を10本ほど用意する。「弾力性のある竹でないとだめ。1mほどの糸の先端の針に餌をつけ、川岸に固定して水中に餌を垂らす。餌はカエルかハエ(ハヤ)のぶつ切り」。簡単な仕掛けでもウナギが獲れた。
「カワガニの隠れているところは、水中を見るとわかる。石の間から砂を掻きだした跡があれば、そこにいる証拠。実のついた稲穂を穴に差し込むと中でカワガニが実をかじる手応えがある。そのまま少しずつ穴から引き出して姿が見えたらさっと手でつかむ」という。
久木野川を訪れた日、支流の寒川(さむかわ)川上流の「涙の別れ石」まで上った。「昔、大川の村から尾根越えで寒川の娘さんのもとまで通っていた若い衆が、思いを遂げることができなく涙を流して別れた場所」だという。「涙の別れ石」にたどり着いたころには、午前中曇天だった空が青色に変わっていた。

寒川川上流の森の中に残る「涙の別れ石」

栗鶴谷と木馬の算盤棚

「昭和38年の水害では、栗鶴(くりづる)にも被害があった。浪人越(ろうにんごえ)も荒れてしまい、それからは歩いて越えることがほとんどなくなった」。五木村栗鶴で聞いた昔話である。
昭和38年8月、熊本県下で集中豪雨があり、八代市内では人的被害が出ている。当時、栗鶴では広大な山林でコバ作(焼畑)が行われ、炭焼きも盛んであった。谷の奥にはコバ作の出小屋が2軒あり、木馬(きんま)を使って木材、炭などの山の産物が搬出されていた。
「木馬道のことを算盤棚(そろばんだな)と呼んでいた。山道に丸太を並べ、木馬に積んだ荷を川辺川本流の鶴(つる)まで運んだ。男が肩に渡したロープで前に立って木馬を引き、女たちは後ろから木馬を押しながら下った」という。山の産物は索道で川辺川を宮園へ渡り、そこからはトラックに積まれて人吉方面へ運ばれた。
栗鶴への自動車道は、集落の奥で栗鶴谷を右岸に渡る。その先は未舗装の林道となり、谷も急に狭まる。林道を登ると谷側への作業道があり、下ると「栗鶴第4砂防堰堤」で終点となった。終点で栗鶴谷の流れと出会うことができた。

栗鶴谷。奥に3段の小滝が見える

砂防堰堤の上流から栗鶴谷に入渓した。沢伝いに上流へと進むと両岸は自然林の森となり、奥に3段の小滝が見えた。谷から作業道まで戻ると、斜面にヤブツバキの木があり、一輪だけ朱色の花が咲いていた。

ヤブツバキの花が1輪だけ咲いていた

白川畑井手と鳥子川のガネウケ

白川のアユは「鮎返りの滝」(南阿蘇村栃木)の下まで遡上すると言い伝えられてきたが、実際には滝壷までアユがたどり着くことはないとされる。
黒川第二発電所(南阿蘇村立野)のすぐ下流に、「畑(はた)井手」の取水口がある。「畑井手」は、江戸初期、布田手永鳥子村外牧(現在の大津町)の篤農家国武主膳の発案で開削が始まっている。
主膳は、鳥子村宮山(現在の西原村)の生まれで、寛永11年(1634)、外牧で「畑井手」の開削にあたっている。井手開削は、細川藩の家老米田監物の許可を得て、御知奉行緒方勘右衛門のもとで行われた。「畑井手」の完成によって、白川南岸の外牧・錦野(大津町)に新田55haが拓かれる。
白川左岸沿いの県道145号を大津町中島から上流へと走ると、道は外牧の内牧橋で白川を渡る。橋の手前から畑地区への道が右に分かれる。川沿いの道は白川本流を目の前にして突然途切れ、「畑井手」の取水口と「畑井手」へ分流するための堰が現れる。

畑井手取水口近くの白川の流れ

「畑井手」の堰から河原に降り立つと、巨岩の連なりの間にヨナ混じりの小さな砂地が点々と続いている。堰から下は流れも穏やかで、ここまでならアユが遡上してもおかしくないと思えた。
白川上中流域での川魚漁は、梁(やな)やウケで捕るウナギとガネ(モズクガニ)が中心であった。梁にアユが混じるようになったのは、アユの放流が始まってからという。
「畑井手」からの帰りに、国武主膳の出身地・宮山に寄ることにした。途中、白川の支流鳥子川で、細流に仕掛けられたガネウケを見つけた。

鳥子川に仕掛けられたガネウケ