五ヶ瀬川滝下のトロ場と観音堂

久しぶりに蘇陽峡の滝下(上益城郡山都町)に訪れた。滝下への町道は、今村で国道265号から分かれ、五ヶ瀬川に向かって一気に下る。岩壁を伝うように設けられた舗装道路を下ると、蘇陽峡にたどり着く。渓谷の両岸には切り立った岩壁が延々と続き、その底に五ヶ瀬川が静かに流れている。滝下地区は、清流と岩壁に挟まれ、左岸側に人家や棚田が点在している。
滝下の町道を下流の九州電力三ヶ所発電所に向かう。発電所に渡る二瀬橋のすぐ上流が、五ヶ瀬川と支流三ヶ所川の合流点である。合流点では50代の男性が、ちょうど仕掛けの準備中であった。
「解禁日にここより下流で20cmクラスを10尾ほど釣った」。6号の針にエサはクリ虫。小さな重りと毛糸の目印を付けて、エサを流れに乗せてヤマメを誘うのだという。「今ぐらいなら川虫がいいが、まだ川虫の姿がない。桜の花びらが散るころには、川虫が採取できるので、実際はそのころが狙い目」だという。

滝下のトロ場でヤマメを狙う

二瀬橋のすぐ下流が浅いトロ場。まず、流れに立ち込んでトロ場でヤマメを狙う。そこから上流は、本流・支流とも岩に仕切られた浅瀬が続くことになる。
橋の下をくぐり、五ヶ瀬川本流に沿って浅瀬を釣り上ると、今度は浅い小渕が点々と続く。その奥まで辿ると、河原付きの浅瀬があり、その上流でやや深いトロ場となる。
竿を振る釣り人の姿を追って川岸を伝ううちに、いつの間にかトロ場を見下ろす巨岩の上に登っていた。滝下からの帰り、近くの滝下観音堂に立ち寄った。岩壁の下の石仏にはサカキが添えられていた。

滝下観音堂奥の岩壁の下に石仏が祀られている

神原川メンノツラ谷とイワメの謎

ヤマメは、神奈川県箱根以北と北陸、中国山陰の日本海側河川、九州の太平洋側河川に分布するサクラマスの陸封型淡水魚である。アマゴは、箱根以西の本州太平洋側河川と瀬戸内海側河川に生息し、サツキマスの陸封型とされる。体側に小朱点があるのがアマゴ、ないのがヤマメと分類されている。
アマゴは、九州では瀬戸内海側に流れ込む大分県内の河川に生息するとされるが、イワメと呼ばれる謎の渓流魚の存在も知られている。
イワメの存在が最初に確認されたのは、大分県大野川水系神原(こうばる)川源流のメンノツラ谷である。地元では、メンノツラ谷最上流にアマゴに似るが、幼魚斑(パーマーク)や黒点・朱点がない渓流魚がいることが知られていた。

増水した神原川メンノツラ谷

イワメが、新種のサケ科魚類イワメとして正式に報告されたのは、昭和36年のこと。だが、その後の調査で、本州や四国の幾つかの河川でもイワメの生息が確認されている。現在、イワメはアマゴの劣性突然変異という説が有力となっている。
阿蘇郡高森町津留から県道8号線を北に向かい、大分県内の宇目小国広域林道に入ると、祖母山系緩木山の支尾根をいくつも横切る。しばらで豊姫橋。ここで神原川を右岸側に渡り、本流沿いに下ると神原集落でメンノツラ谷と出会う。メンノツラ谷沿いの舗装道路を遡り、白水(しろうず)橋を渡ると白水集落。ここから上流がイワメの生息域とされる。
棚田の間の農道を下りメンノツラ谷に降り立つと、2日前までの長雨の影響で増水していた。渓流に足を浸すと思いのほか冷たい。
メンノツラ谷からの帰り、高原の津留まで戻ると、道路沿いのあちこちにオタカラコウやヤマジノホトトギス、ハガクレツリフネソウの花が咲き始めていた。

高森町津留に戻ると道沿いにヤマジノホトトギスの花が咲いていた

枳之俣川と消えた米の窪への道

20年ほど昔に登ったことのある米の窪(こめのくぼ、標高673m)を再び訪れようと思い立った。八代市坂本町中津道で球磨川本流沿いの国道219号と別れ、市ノ俣川沿いの舗装道路を1キロほど上流へ向かうと、今度は枳之俣(げすのまた)川が左に別れる。枳之俣下流は比較的フラットだが、上流へ向かうとすぐに谷が狭まる。
麓の枳之俣集落で山道のことを尋ねてみたが、登るのを止められた。「米の窪への道は、もう消えているからやめたほうがいい」。
枳之俣から望む米の窪の山頂は、見上げるような尾根上にあるが、かつては人が頻繁に登り降りしていた。枳之俣の5戸が組合をつくり、米の窪に養蚕小屋が設けられたのは昭和23年ごろである。米の窪の山頂は平坦で、麓では想像できないほどの広さがあった。桑を栽培することが可能だった。
「最初は米の窪まで人がやっと登れる程度の山道しかなかった。肥料を担ぎ上げるのも大変だった。麓との間に索道を通してからは肥料運搬も楽になった」という。索道のワイヤーに鉄篭を下げ、肥料や繭を運んだ。ワイヤーの巻き上げも最初は人力頼りであった。養蚕事業は昭和40年ごろまで続いたという。

照葉樹林の中を流れ下る枳之俣川

米の窪まで登るのはあきらめて、枳之俣川まで降りた。集落内は護岸工事で人工的なものに変わってしまったが、その下流は照葉樹の森の中を流れる。カシの木につかまりながら、岩混じりの急斜面を谷底まで下ると、前日までの豪雨で渓流は濁っていた。
枳之俣からの帰り、谷に渡された錆びた索道を見つけた。ワイヤーには鉄製の篭がぶら下がったままになっている。米の窪の索道もきっとこんなものだったのかと想像してみた。

枳之俣川沿いで見た索道

アユ舞う那良川と白浜森林軌道

球磨村の那良口(ならぐち)に架かる橋のたもとで、アユのことを尋ねた。「那良川にもアユは遡上してくる。球磨川が増水した時にはマスが上って来る。俣口(またくち)にはヤマメもいるが、那良口でも20cm以上のヤマメが釣れる」という。那良川の川面に視線を向けると、石垢を食(は)みながら水中で舞うアユたちの姿が見えた。
那良川源流域の白浜国有林から那良口まで白浜森林軌道が敷設されたのは、明治44年のことである。延長1万1580m。白浜森林軌道では、那良川上流から作業員が、木材や炭を積んだ台車を操作しながら那良口まで下った。戻りには、馬が台車を牽いた。そのために那良口に馬小屋が設けられ、馬が待機していた。
那良川右岸をひたすら下ったトロッコ道は、本流との合流点100mほど手前で左岸に渡る。その橋を地元では「トロ橋」と呼んだ。昭和30年代には「トロ橋」が残っており、下は深い渕となっていた。夏になると、子どもたちは「トロ橋」から那良川に飛び込み、肝試しをした。
森林軌道は、近くの肥薩線那良口駅まで延びていた。那良口駅前には日本通運の事務所があった。人力で回す起重機が置かれ、炭を保管する炭小屋が3棟建っていた。駅構内には貨物側線と木材積み込み用ホームが設けられ、那良川上流から搬出した木材や炭を国鉄の貨車に積み替え八代方面へと下った。

俣口地価の那良川の流れ

森林軌道の起点である白浜国有林には、営林署の官舎があった。那良口には、これら那良川流域で暮らす人々を相手にした雑貨屋や酒屋、衣料品店、鮮魚店があり賑わった。商店は那良川上流まで荷を背負い、行商に赴くこともあった。昭和29年度いっぱいで、白浜森林軌道は廃止となり、トラックが木材や炭を搬出することになった。
那良口から俣口集落まで自動車道を上った。俣口近くまで来ると谷が狭くなり、両側の稜線が近づく。自動車道から谷沿いの棚田への農道を下るとヤブランが点々と自生し、ちょうど花期を迎えていた。

那良川沿いの棚田の脇に咲くヤブランの花