緑川津留の穴ん口と箕つくろい

上益城郡旧矢部町(現山都町)在住の郷土史家、井上清一氏の書き残した『山窩物語』(同人誌『舫船』)に、次のような一節がある。戦前期の情景である。
「箕(み)つくろいの集団が矢部を通過するのは5月20日頃で、必ず西から矢部に入って、東へ抜けていたようである」。集団の顔ぶれが変わっても、通るコースは決まっていたという。
穀類の選別器であった箕は、かつては全国どこの農家でも備えていた必需品であり、製作には高度な技術が必要だった。
『山窩物語』によると、箕つくろい集団が通るルートは3つあったという。砥用町(現美里町)から緑川沿いに上り、旧矢部町目丸・津留・囲から旧清和村(現山都町)木原谷へと抜けるもの。甲佐町早川から御船町水越を経由して、旧矢部町千滝、旧清和村米生へのコース。御船町木倉から旧矢部町長谷・金内・下名連石、旧清和村鶴底を通り、旧蘇陽町(現山都町)の柏に至る道筋である。いずれも、途中の集落で箕の販売や修理をしながら、数日かけて移動していた。

緑川沿いの津留本村。すぐ上流左岸に「穴ん口のお宮」がある

箕つくろいの通過点である山都町津留の対岸に、地元で「穴ん口のお宮」と呼ぶ大きな岩屋がある。津留の古老によると「大雨の日には旅芸人や乞食、箕つくろいの人たちが、岩屋に雨宿りしたり泊まったりしていた」という。箕つくろいたちは、津留本村の神社境内に道具を広げ、注文を受けて箕を作ったりつくろいをして、「穴ん口のお宮」を宿泊に利用していた。
岩屋を訪ねてみると、内部は砂地となっており、小さな観音堂が建てられていた。岩天井は高く、奥行きもかなりある。よほどの暴風雨でない限り、雨が吹き込むことはなさそうである。かつて、ここで「箕つくろい」たちが野宿していたのである。

穴ん口のお宮

真夏の楮畑川と開拓団の村

菊池市立門(たてかど)から県道25号線(原立門線)に入り、10分ほど車を走らせると、杉生(すぎお)集落との分岐点である。ここまで来て、ようやく右下に楮畑(かごはた)川の流れが見えた。
林を抜けて川岸まで下りると、水面にはまだ陽光は差し込んでいない。渓谷を包む樹林帯は前日の雨でしっとりと濡れたままである。浅瀬に立ち込み、水流に足をとられないよう踏ん張ってみた。8月初旬にもかかわらず水温は意外と低い。

朝もやの中の楮畑川

楮畑川上流には、杉生、楮畑の2地区がある。いずれも、開拓事業で誕生した集落である。楮畑川流域では、戦後、開拓団の入植によって農地が新たに開発され、人口増がもたらされた。
楮畑川下流の立門地区においては、開拓事業の拡大とベビーブームによって昭和30年代に児童数が急増し、地元の水源北小学校では生徒数が400名を超える。だが、ベビーブームが去り、開拓団の離村も重なった昭和40年代には100名台へ減少。さらに、昭和46年には水源北小学校杉生分校が廃校となる。
楮畑川を遡上すると、川岸にオオキツネノカミソリの花が点々と現れ、その奥で階段状の小滝に阻まれた。小滝の脇を伝って県道まで這い上がると、すでに真夏の太陽が真上まで昇っていた。

楮畑川源流に咲くオオキツネノカミソリ

汗の平谷とニガコベ谷のバイケイソウ

五家荘(八代市泉町)樅木(もみき)から、汗の平谷を遡行して上福根山(標高1645.4m)山頂を目指したものの、時間切れで撤退したのは30年以上も昔である。その時の記憶のほとんどは失われたが、鮮明に思い出す情景がある。バイケイソウの花が満開だったことである。
バイケイソウ(梅蕙草)は、ユリ科シュロソウ属の多年草。北海道・本州のほか、九州の山地・亜高山にも分布する。花はウメの花、葉はシンビジウム属の一種、蕙(ケイ)蘭に似ていることからこの名がついたとされる。涼やかな大葉も特徴的であるが、7月ごろ満開となる緑白色の花の印象は強烈である。
記憶を頼りに、小雨の降る汗の平谷に入渓した。砂防ダム脇から谷沿いの山道をたどると、砂利が堆積した河原となり、小さな堰で踏み跡が途絶えた。しばらく遡行したが、増水した渓流に危険を感じて早々と引き返した。

小雨のもとでやや増水した汗の平谷

バイケイソウと再会したのは、樅木からの帰路であった。樅木から椎葉村尾前につながる峰越林道を車で走ると、眼下のニガコベ谷につながる斜面にバイケイソウが点々と自生している。そのうちのいくつかには、緑白色の花が満開となっていた。
斜面を降りて、ようやく出会ったバイケイソウの花をしげしげと眺めると、下部の雄花が自重で垂れ下がり、すでに盛りを過ぎていた。

ニガコベ谷で見つけたバイケイソウの花

平野谷の幻の轟と銅鉱山

五木村の新五木川発電所横から林道北西谷線に入ると、平野谷の奥へと向かう。しばらく登ると、林道は落石によって突然行き止まりとなった。だが、谷底からは渓流の水音が響いている。
林道奥で出会った老人は、和蜂の巣箱の手入れに来ていた。立ち話をすると「砂防堰堤が出来る以前、この谷には地付きのヤマメがたくさんいた。放流ものと違うのは口が大きいこと。産卵時期にはヤマメは平野谷を下る。昔は竹で作ったウケを瀬に仕掛けていると大きなヤマメがたくさん獲れた」という。

二次林に挟まれた平野谷の流れ

林道が開削される以前、平野谷沿いには山仕事の道があり、白髪岳(標高1244m)直下まで延びていた。「谷奥には大きな滝が2つあり、上の轟(とどろ)、下の轟と呼んでいた。今は昔の山道は絶えてしまい、滝の近くまで行くことさえも難しいだろう」という。
老人は「私が若いころ、平野谷には銅山があった。谷沿いに索道を張って、鉱石を本流(川辺川)との合流点近くまで降ろしていた」。平野谷の銅鉱山は、昭和20年代まで存続したという。
平野谷からの帰り、近くの平野集落に立ち寄った。川辺川沿いの国道から急な自動車道を上ると、道路脇にイワタバコの花が咲き乱れていた。集落まで登ると五木阿蘇神社の横に出た。社の目の前には文化4年(1807)に平野で生まれ、江戸相撲で活躍した大関熊ヶ嶽の墓が建っていた。

平野集落へ上る自動車道脇にイワタバコの花が咲いていた

宇那川と西郷軍の半助台場

西郷軍が人吉城下に入ったのは、明治10年(1877)4月28日のことである。人吉では、旧相良藩士を中心とした人吉一番隊(神瀬鹿三隊長)が結成され、川尻などで薩軍として戦っていた。人吉に到着した西郷隆盛は、永国寺に本陣を構え、人吉二番隊(菊池淡水小隊長)、人吉三番隊(相良淡海隊長)を編成する。
このころ、官軍側は、別働第二旅団と別働第四旅団が、万江(まえ)越道、照岳道、五木越道、五家荘越道、種山道、球磨川道、佐敷道の7つのルートで人吉への侵攻を目指していた。
人吉市内から山江村に入り、万江川沿いの県道17号線を上流へ向かった。柚木川内(ゆのきごうち)、屋形、小鶴、六沢(ろくそう)を過ぎると、宇那(うな)川との合流点吐合(はけあい)。吐合から宇那川沿いの道を尾寄崎(およりさき)へ遡った。

万江川から支流宇那川に入ると一気に谷が険しくなる

尾寄崎のヤマメ養殖場で西南戦争当時の言い伝えを聞いた。「横谷(尾寄崎から東側に登った集落跡)の麓に西郷軍が掘った『半助台場』という壕があった。だが、今は草に埋もれてしまい、見つけ出すのは難しいだろう」という。
官軍は万江越道と照岳道を併進する。このうち、万江越道では、肥後峠、榎峠、国見峠の3方面から万江川沿いに進み、水無と大河内を攻略している。結局、侵攻ルートからはずれた「半助台場」では戦闘は行われなかった。
宇那川から本流沿いの県道まで戻るころには、陽光もかなりやさしくなった。万江川沿いに下ると、川遊びの子どもたちの姿があった。

本流万江川は明るい陽光に満ちていた

五木村下梶原川と焼畑の村

下梶原集落(五木村)の下流で、急斜面を下梶原川まで降りた。河原まで下ると、川岸近くに点々と淀みがあり、流れ寄せられた落ち葉が漂っている。渓谷の両側は急斜面だが、川底そのものはフラットである。

下梶原川の流れ

下梶原は、五家荘久連子地区から移り住んだ人々によって開かれた。『下梶原のあゆみ』(嶽本一男)によると、江戸時代中期の享保16年(1731)、久連子では、焼畑の生産能力を超えて人口が増え、村民27名が宮園、入鴨、中道、下梶原(いずれも現在の五木村)、水上村などに移住している。その時、下梶原には9名が定住。旦那(地主)の梶原椎葉家のもとで、名子(なご)として焼畑や山仕事に就いたとされる。
下梶原に転機が訪れるのは、昭和14年(1939)のことである。熊本県が下梶原地区を分収林としたため、椎葉家から1戸当たり10町の山林が名子へ無償分与された。
下梶原では、本畑を蕎(そば)、稗(ひえ)、小豆(あずき)、粟(あわ)の順に4年間耕作し、他に麦畑と野菜畑があった。焼畑とするのは年間1町分である。焼畑のサイクルは30年で、そのため1戸30町が必要であった。それが実現したのは、戦後の農地解放令によってである。
下梶原から本流川辺川との合流点竹の川集落への帰り、道路沿いに咲く黄色い花を見かけ車を止めた。しげしげと見ると、花期が終わりかけたヤクシソウであった。

下梶原川沿いの道に咲くヤクシソウの花

東内谷と消えた内大臣の暮らし

内大臣渓谷(上益城郡山都町)で本格的な森林開発が始まったのは、大正期のことである。大正5年(1918)、浜町営林署内大臣事業所が開設され。大正7年には、営林署立の分教場「内大臣家庭教育場」が設けられている。
最盛期の内大臣集落は、「下土場」、「上土場」、「川越」の3地区に分かれ、中心地には事務所や集会所、売店、軽便鉄道の引き込み線などがあった。さらに、支流の西内谷には「龍の髭」、内大臣川上流には「二本杉」と呼ばれる小集落があり、森林作業員が暮らしていた。戦後になり、「二本杉」には、ディーゼル機関車を方向転換するためのターンテーブルが置かれた。
無人となった内大臣集落跡を左に見ながら椎矢林道を登ると、目丸発電所につながる取水口が現れる。その先で林道は右岸に渡る。あたりが、かつての「二本杉」である。さらに林道を上り詰めると、東内谷へ向かう林道が分かれる。

東内谷でヤマメを狙う

東内谷の堰堤下で同行者が竿を延ばした。餌はミミズ。広葉樹がびっしりと茂り、晴れた日なのに谷底は薄暗い。堰堤下では思ったほどのアタリがない。下流に移動し、浅い小淵が連続する地点で再び竿を出してみた。同行者は身軽に渓流を移動し、こまめにポイントを探す。足元に注意しながら後ろ姿を追っかけているうちに、岩の上で息を殺していたガマガエルに気がついた。

渓流沿いの岩の上に潜んでいたガマガエル

小川川と鍋割の地付きヤマメ

小川川は、鞍岡(宮崎県五ヶ瀬町)の南側で五ヶ瀬川と合流する。谷沿いの小川集落は、小川岳(標高1542m)の稜線を越える「小川緑川越」によって、赤木集落(熊本県山都町)と人・モノの往来があった。
「10年ほど前までは、小川川には放流ものでない天然ヤマメがいた」。探し求めていた五ヶ瀬川の地付きヤマメの消息を、小川集落(宮崎県五ヶ瀬町)で聞くことができた。
小川集落のシタイケ乾燥室を抜けると小さな畑があり、その横が小川川である。「毎年今ごろになると、浅瀬でヤマメが産卵する」と乾燥小屋の持ち主が教えてくれた。見ると、幅5mほどの流れに、細かい砂利のたまった浅瀬がある。

小川川の流れ

鞍岡から椎葉村方面に国道を上り、小川集落への町道に入ると、谷沿いに棚田が続く。陽当たりのよい斜面には、ミゾソバやヨメナ、アキノキリンソウが咲き始めている。「新小川橋」を渡ったあたりから谷が狭くなる。橋のたもとの左岸沿いに、未舗装の旧道が残っている。
地元では、旧道に架かる橋のあたりを『鍋割』と呼ぶ。鍋割橋の上流から川水を分流して鞍岡の小切畑まで送っている。ヤマメが棲むのはさらに上流になる。
鍋割橋から小川川の岸辺に下ると、左岸沿いに古い用水路がある。浅い部分を選んで対岸に渡ったが、水深は膝ほどである。だが、小川川の流れは、凍えるほどの冷たさであった。

陽当たりの良い斜面にヨメナが群落をつくっていた

インクラインと井戸江峡の森林鉄道橋

知人から次のような話を聞いた。「大昔、内大臣川と緑川の合流点にあったインクラインで大きな事故があった。インクラインには人は乗ってはいけないが、昇りの空車に乗っていた人がいたらしい」という。インクラインは、丸太を積んだトロリーを制動機で加減しながらワイヤーで降ろし、同時に空車を引き上げる装置である。一時は全国各地の営林事業で盛んに使われたが、戦後はほとんど使われなくなる。
明治時代末期から森林開発が始まった内大臣川流域では、早くも大正4年(1915)に内大臣森林鉄道が敷設される。内大臣川の奥地から切り出された木材は、森林軌道のトロッコに積み込まれ、緑川本流を見下ろす地点まで下った。緑川本流沿いには「茶木場」(ちゃこば)と呼ぶ貯木場があった。「茶木場」からは、軌道台車に積み直され、ガソリン気動車や蒸気機関車、後にはディーゼル機関車に引かれ、甲佐貯木場まで運ばれていた。

緑川本流井戸江峡の流れ

甲佐町の市街地から緑川沿いの県道を遡ると、「井戸江峡」と呼ばれる渓谷域となる。「井戸江峡」の上流には「茶木場」から下ってきた内大臣森林鉄道の鉄橋が残されている。
森林鉄道廃止後、鉄橋は歩道橋として利用されていたため、軌道部分はすべてコンクリートで塗り固められている。対岸をのぞき見ると、「茶木場」につながる軌道敷跡はすっかり雑木にふさがれている。かつて、木材を満載した台車が機関車に引かれ鉄橋を渡っていた面影は、幻のように消え去っていた。

井戸江峡上流に残る内大臣森林鉄道橋

緑川源流と小屏風神社のトチの大木

年号が平成に替わる以前のことである。緑川源流から宮崎県椎葉村との県境三方山(標高1578m)までの遡行を計画した。源流行に備えて、前夜、源流近くの沢津(旧清和村・現山都町)の小屏風(こびょうぶ)神社境内にテントを張った。
小屏風神社境内に到着した時には、すでに星が瞬き始めていた。暗闇が迫る中、懐中電灯の明かりを頼りに3人で食事を済ませ、それぞれにテントを張った。寝袋に潜り込んだころから、風が出てきた。境内の木々が激しい葉音をたてた。
深夜、小石が落下して地面を叩くような音が断続的に続き、いくつかはテントを直撃した。落下音は風が静まるとともに止んだ。
翌朝、テントから這い出すと、境内一面にトチノキの実が散らばっていた。夜中の強風で実が一気に落ちたらしい。見上げると、境内はトチノキの大木に覆われ、われわれはその真下でテントを張っていた。
翌朝の源流行は、穿(うげ)の洞窟地点から入渓したが、遡行距離の長さから三方山山頂まで辿り着くことができなかった。

緑川源流穿の洞窟

数年ぶりに穿の洞窟への道を辿ってみた。「緑川の水源はここから流れ出、日向(宮崎県)まで通じている」との伝説がある穿の洞窟入り口には、注連縄が張られている。水量は豊富である。渓流沿いにはコンロンソウやヤマブキ、マムシグサの花がひときわ目立った。
緑川源流からの帰り、昔一夜を過ごした小屏風神社に立ち寄ってみた。新緑のトチノキの葉で覆われた境内は、きれいに掃き清められていた。

新緑の中でひときわ目立つヤマブキの花