木護川と消えた野猿の群れ

木護(きご)川は、旧上津江村(現日田市)との大分県境から菊池市立門(たてかど)までの5㎞ほどの短い谷だが、源流域は菊池渓谷に隣接した広大な山林地帯となっている。立門から川沿いの舗装道路を遡ると、しばらくはスギ林に覆われているが、照葉樹主体の自然林が増える。

自然林に挟まれた木護川の流れ

谷は狭いが、水量は豊富、流れは比較的ゆるやかである。苔の乗った丸石が多いのは、水害などで谷が荒れていないおかげだろう。
川沿いに上流に向かうと、思いかけず大きな淵が現れた。広さは小学校のプールほど。水深は3、4mはありそうである。それでも淵の底が目視できるほど木護川の透明度は高い。

木護川上流のドン深の淵

立門から3㎞ほど上流で舗装道路は川沿いを離れ、木護集落に登る。南向きのゆるやかな斜面に棚田が広がり、棚田と山林に囲まれて人家が点在している。標高600mの高地だが、陽当たりはよい。
昭和20年代までは、菊池渓谷を中心とした県境地帯に野猿の群れがいたという記録がある。木護集落で野猿について聞いた。「戦後、県境の原生林を伐採したあとに、猿が餌を求めて麓に下りるようになった。30年ほど前には菊池渓谷の奥で猟師が猿を撃とうとしたが、相手と目が合ってしまい、かわいそうになって撃てなかったらしい」。だが、「最近は木護にも離れ猿が出ることもなくなった」という。
木護集落から立門まで戻ると、陽光が石橋立門橋を正面から照らし、石橋のたもとにはタンポポの花が咲き誇っていた。

小さで川に見た最後の尺ヤマメ

明治43年(1910)、旧人吉営林署管内で最初の森林鉄道(森林軌道)である段塔(だんとう)林道が敷設された。その後、球磨・人吉地区では白浜林道(球磨村那良川流域)、大塚林道(人吉市胸川流域)、矢岳林道(人吉市大川間川流域)にも森林鉄道が設けられる。
人吉市上田代町に「土場」(どば)の地名が残されている。上田代地区から小さで川沿いにさかのぼると、かつての段塔町に至る。戦後しばらくまで、段塔町一帯は森林開発で賑わい、小さで川流域で伐採された広葉樹が「土場」に集積されていた。
「トロリーに積んだ丸太を森林軌道で土場まで降ろし、トラックで営林署のあった人吉市南町の貯木場へ運んだ。段塔までの帰りは登りになるので、空のトロリーを木炭機関車が引いていた」。ただ、段塔林道に木炭機関車が導入されるのは戦後のことで、それまでは「下りはトロリーの後ろに馬をつなぎ、帰りは馬が空のトロリーを引いた」という。
段塔から森林軌道が撤去されたのは、昭和30年代になってからである。国有林での森林伐採・植林作業が終結すると、段塔町からは人の姿が消えた。それに伴って、昭和51年(1976)3月には大畑小学校段塔分校が閉校となる。

小さで川の流れ

上田代から段塔林道を上流へと進むと、4キロほどで左下に段塔分校の跡地が見える。分校跡まで下ると、運動場だった広場の脇に「人吉市立大畑小学校段塔分校跡地」の石碑が建っていた。
広場を抜けると、すぐに小さで川の流れである。川岸に出ると、釣り人の足跡が上流に向かって続いている。しばらくすると、釣り人が戻って来た。今日は今年のヤマメ漁期最後の休日である。釣り人は小さで川で今年最後の尺ヤマメを釣り上げていた。

釣り人は尺ヤマメを釣り上げていた

回想久木野川と涙の別れ石

「6月から9月は、ウナギテゴや竹竿の仕掛けでウナギをとっていた。10月になるとカワガニもとれた」。今から50年以上も昔、水俣市久木野で少年時代を過ごした知人の回想である。
梅雨期に入ると、水俣市久木野の雑貨店の店先には、竹製のウナギテゴがぶら下げられた。子どもたちは小遣い銭を貯めてウナギテゴを買い、久木野川の浅瀬で仕掛けた。小枝やコケでウナギテゴを覆い、入口を下流側に向けておくと、水俣川河口から上ってきたウナギが入り込む。

前日の大雨で増水した久木野川

「夕方のまだ明るいころに仕掛ける。翌朝になって引き上げると、ずしりと重く、中でウナギがゴソゴソと動き回るのがわかる」という。一つのウナギテゴにウナギが10匹も入っていたこともあった。
竹竿の仕掛けでもウナギがよく捕れた。長さ1、2mほどの細竹を10本ほど用意する。「弾力性のある竹でないとだめ。1mほどの糸の先端の針に餌をつけ、川岸に固定して水中に餌を垂らす。餌はカエルかハエ(ハヤ)のぶつ切り」。簡単な仕掛けでもウナギが獲れた。
「カワガニの隠れているところは、水中を見るとわかる。石の間から砂を掻きだした跡があれば、そこにいる証拠。実のついた稲穂を穴に差し込むと中でカワガニが実をかじる手応えがある。そのまま少しずつ穴から引き出して姿が見えたらさっと手でつかむ」という。
久木野川を訪れた日、支流の寒川(さむかわ)川上流の「涙の別れ石」まで上った。「昔、大川の村から尾根越えで寒川の娘さんのもとまで通っていた若い衆が、思いを遂げることができなく涙を流して別れた場所」だという。「涙の別れ石」にたどり着いたころには、午前中曇天だった空が青色に変わっていた。

寒川川上流の森の中に残る「涙の別れ石」

栗鶴谷と木馬の算盤棚

「昭和38年の水害では、栗鶴(くりづる)にも被害があった。浪人越(ろうにんごえ)も荒れてしまい、それからは歩いて越えることがほとんどなくなった」。五木村栗鶴で聞いた昔話である。
昭和38年8月、熊本県下で集中豪雨があり、八代市内では人的被害が出ている。当時、栗鶴では広大な山林でコバ作(焼畑)が行われ、炭焼きも盛んであった。谷の奥にはコバ作の出小屋が2軒あり、木馬(きんま)を使って木材、炭などの山の産物が搬出されていた。
「木馬道のことを算盤棚(そろばんだな)と呼んでいた。山道に丸太を並べ、木馬に積んだ荷を川辺川本流の鶴(つる)まで運んだ。男が肩に渡したロープで前に立って木馬を引き、女たちは後ろから木馬を押しながら下った」という。山の産物は索道で川辺川を宮園へ渡り、そこからはトラックに積まれて人吉方面へ運ばれた。
栗鶴への自動車道は、集落の奥で栗鶴谷を右岸に渡る。その先は未舗装の林道となり、谷も急に狭まる。林道を登ると谷側への作業道があり、下ると「栗鶴第4砂防堰堤」で終点となった。終点で栗鶴谷の流れと出会うことができた。

栗鶴谷。奥に3段の小滝が見える

砂防堰堤の上流から栗鶴谷に入渓した。沢伝いに上流へと進むと両岸は自然林の森となり、奥に3段の小滝が見えた。谷から作業道まで戻ると、斜面にヤブツバキの木があり、一輪だけ朱色の花が咲いていた。

ヤブツバキの花が1輪だけ咲いていた

白川畑井手と鳥子川のガネウケ

白川のアユは「鮎返りの滝」(南阿蘇村栃木)の下まで遡上すると言い伝えられてきたが、実際には滝壷までアユがたどり着くことはないとされる。
黒川第二発電所(南阿蘇村立野)のすぐ下流に、「畑(はた)井手」の取水口がある。「畑井手」は、江戸初期、布田手永鳥子村外牧(現在の大津町)の篤農家国武主膳の発案で開削が始まっている。
主膳は、鳥子村宮山(現在の西原村)の生まれで、寛永11年(1634)、外牧で「畑井手」の開削にあたっている。井手開削は、細川藩の家老米田監物の許可を得て、御知奉行緒方勘右衛門のもとで行われた。「畑井手」の完成によって、白川南岸の外牧・錦野(大津町)に新田55haが拓かれる。
白川左岸沿いの県道145号を大津町中島から上流へと走ると、道は外牧の内牧橋で白川を渡る。橋の手前から畑地区への道が右に分かれる。川沿いの道は白川本流を目の前にして突然途切れ、「畑井手」の取水口と「畑井手」へ分流するための堰が現れる。

畑井手取水口近くの白川の流れ

「畑井手」の堰から河原に降り立つと、巨岩の連なりの間にヨナ混じりの小さな砂地が点々と続いている。堰から下は流れも穏やかで、ここまでならアユが遡上してもおかしくないと思えた。
白川上中流域での川魚漁は、梁(やな)やウケで捕るウナギとガネ(モズクガニ)が中心であった。梁にアユが混じるようになったのは、アユの放流が始まってからという。
「畑井手」からの帰りに、国武主膳の出身地・宮山に寄ることにした。途中、白川の支流鳥子川で、細流に仕掛けられたガネウケを見つけた。

鳥子川に仕掛けられたガネウケ

日光川と天水流れの千枚棚田

油谷川沿いの県道と別れトンネルをくぐると、日光(にちこう)集落まで登る舗装道となる。車道は、しばらく日光川左岸をたどるが、途中で右岸に移る。谷の両側は雑木に覆われた岩壁混じりの急斜面で、右岸側には古い石垣が連続している。

日光川の流れ。右岸に棚田の石垣の跡が残る

日光集落まで登ると、いきなり視界が大きく開け、天空が広がった。陽当たりのよい緩傾斜地に石垣を築き、人家がかたまっている。
日光は、旧坂本村(現八代市)鮎帰地区の中で、最も早い時期に人が住み着いた集落とされる。記録によると嘉永6年(1853)には36戸215人が暮らしていた。平坦地がほとんどない稜線上の集落で、それだけの人口を維持できたのは、戦国時代以降築かれ続けた棚田群があったからである。
日光の棚田群は、「たくぼ」と呼ばれ、平均勾配20%の急斜面に232枚(総面積約2ヘクタール)が残る。「天水流れ」と呼ぶ水源が、日光の棚田を維持拡大してきた。

日光の棚田群。山水を引き込み、稜線上に石垣を組み田を拓いている

集落で棚田のことを尋ねた。「棚田も昔は千枚以上あったらしい。今は植林地だが、日光川までの斜面はすべて棚田だったし、谷奥にもずっと棚田が続いていた」という。
「昭和40年代までは、峠を越えて五木村山口の人たちがここまで物々交換によく来ていた。日光川沿いに登る車道ができるまでは、川沿いに麓に下るよりも、谷向こうの辻や木々子(きぎす)との行き来のほうが多かった」という。辻も木々子も、日光と同様な山間の集落である。かつては、尾根伝いや峠越えでの人・物の往来が盛んだったことがうかがえる。

吐の瀬五ヶ瀬川と小々波水神

五ヶ瀬町桑野内波帰(はき)から、県道(宮崎県)8号線のS字カーブを下りきると、五ヶ瀬川に架かる波帰之瀬橋のたもとに出た。橋を渡ると高千穂町である。
波帰之瀬橋を渡り五ヶ瀬川沿いに上流へ向かうと、もう一つの橋のたもとに出る。支流の川走(かわばしり)川に架かる県界(けんかい)橋である。全国には県境をまたぐ「県界橋」という名の橋がいくつかあるという。川走川の県界橋は、宮崎と熊本の県境に架かり、渡ると山都町吐(はき)の瀬である。

波帰之瀬橋から見た五ヶ瀬川。上流右手が県境橋と川走川との合流点

広々とした五ヶ瀬川と比べると、川走川は急斜面に囲まれ川幅も狭い。五ヶ瀬川との合流点には旭化成の「川走川第二発電所」がある。川底はフラットな岩盤に覆われ流れも穏やかだが、思った以上に水深がある。
吐の瀬で鳥居を見かけた。鳥居をくぐり農道を下ると、五ヶ瀬川沿いに水神さんが祀ってある。地元で名を尋ねると「小々波(さざなみ)水神さん」だと言う。
「水神さんでは、毎年10月第2土曜日と日曜日に子ども相撲を奉納している。近くの椛山(かばやま)に土俵を造って子どもたちが参加している」という。

小々波水神さん

水神さんの前から五ヶ瀬川を覗くと、川底に点々と白いものが見える。「子や孫たちが病気にならず今年も健康であることを願い、1月14日に水神さんから鏡餅を川に流している。ここではオキノコンゴウさんと呼んでいる」と教えてくれた。
水神さん前の淵を眺めていたら、2匹の大鯉がゆっくりと泳ぐ姿が見えた。

湯浦川源流の幻のヤマメ

湯浦川(芦北郡芦北町)でヤマメが釣れるという話を聞いた。中流の古石(ふるいし)地区でヤマメについて尋ねた。「ハエやナマズ、地元でハチフイと言っているひげのある黄色い川魚もいる。ここではヨシノボリのことをズイと呼ぶ。昔はズイをウナギ釣りのエサに使っていた」。河口に近い豊岡地区にはアユが上るとされているが、「アユを釣る人を見かけたことはない。テナガエビなら多い」。
上流の古道集落でもヤマメのことを聞いた。「昔の湯浦川にはウナギが多かった。家の前に大きな淵があってウナギボテで獲っていた。カワガニもよく食べた。カボチャのナカワタ(種のあるやわらかい部分)を石の間に置いておくとカワガニが集まってきた」。ヤマメについては「数年前まで釣竿を持って川の中を歩いている人を見かけたことがある」という。

照葉樹と落葉樹が混在する湯浦川中流域

最上流の石間伏(いしまぶし)集落まで登り、ようやくヤマメの消息をつかむことができた。「以前は地区の2軒でヤマメとマスを養魚していた。ヤマメは養魚場から逃げ出したものだろう。今でも釣れるはず」と教えられた。
石間伏の奥まで登り、細流となった湯浦川源流を確かめてみた。源流は古石国有林の暗い森からしたたるように流れ出している。国有林の入り口では、アオキが鈴なりの赤い実をつけていた。

湯浦川上流の流れ

都々良川と大矢事業所の山の神

営林事業の拡大と「山の神」は結びついてきた。山林開発が山奥へ延びるにしたがって、「山の神」によって設定されていた境界線を越えて、人々が暮らすことになる。これによって、これまで開発の手が及ばなかったような奥山にも「山の神」が祀られた。
阿蘇南外輪山麓の大矢、緑川源流白岩集落、内大臣川内大臣集落、山出(やまいで)川千間(せんげん)集落、八勢(やせ)川吉無田(よしむた)集落などで、そのような「山の神」が見られる。
山都町大矢(現山都町)官山(国有林)で山林開発が始まったのは、昭和期になってからである。麓の稲生野(いねおの)から5㎞ほど奥地の東大矢に、矢部営林署大矢製品事業所が設けられ、作業員のための住宅が20軒ほど建ち並んだ。その事業所跡近くに「山の神」が祀られている。

大矢官山の入り口に祀られる山の神

稲生野から大矢官山に入り、都々良(つづら)川に架かる大矢橋を渡ると、林道は左に大きくカーブする。その右手の急斜面に「山の神」がある。大矢製品事業所で働く人たちが、官山での山仕事の安全を祈り祀ったものである。
林道からコンクリートの急な階段を登ると、露岩の下に石造りの祠が置かれている。その脇に2基の石灯籠が奉納されており、土台には「矢部営林署退職記念平成4年4月吉日建立」と彫られている。
大矢の「山の神」に手を合わせ、渓流まで下りてみた。春の日差しが川面に跳ね返り、目にまぶしい。雑木をかき分け川岸に出ると、対岸に大矢製品事業所の名残の石積みが残されていた。

渓流沿いに残る大矢事業所跡の石積み

雪の五ヶ瀬川と胡麻山越

車が鞍岡(五ヶ瀬町)に着いたころは一面の雪景色となっていた。鞍岡から本屋敷(もとやしき)まで登ると、時々雪雲が切れ、弱い陽光が差し込む。五ヶ瀬川の河原には雪が残るが、岸辺からは雪溶けの水蒸気が立ち上っている。雪はようやく止んだ。だが、椎葉につながる稜線は霧に覆われ、見通すことはできなかった。

五ヶ瀬川沿いに本屋敷まで上ると稜線もかすんでいた

西南戦争で西郷軍に加わった佐々友房が書き残した『戦砲日記』(青潮社発行)には、御船から退却した熊本隊について次のように書かれている。
「廿三日午時男成神祠ニ於テ招魂式ヲ行ヒ開戦以降、戦死者ノ英霊ヲ祭リ併セテ新隊編成ノ親睦ヲ表ス(以下略)」。明治10年4月23日、熊本隊は池辺吉十郎大隊長以下全員が男成(おとこなり)神社(山都町)境内に集まり、熊本隊の再編成を行っている。
翌4月24日、熊本隊は人吉を目指して行軍を開始する。25日には馬見原から五ヶ瀬川沿いに進み、鞍岡を経て本屋敷に向かった。本屋敷に到着した熊本隊は、佐々隊(佐々友房隊長)と北村隊(北村盛純隊長)に分かれ、佐々隊は胡麻山(ごまやま)越で椎葉胡麻山へ。北村隊は波帰(はき)川沿いに登り、霧立(きったち)越で椎葉尾前(おまえ)に抜けたとされる。
かつて、佐々隊が越えた胡麻山越を歩いたことがあった。本屋敷から林道をたどり、さらに稜線に沿った山道を歩くと、スズタケの繁った胡麻山越にたどり着いた。戦前期まで椎葉からの駄賃付けが行き来していたとされる峠には、割れた甕が土に半分埋まったまま残されていた。

胡摩山越に残されていた割れた甕