緑川鍵の戸橋と塩の道

山都町吹の戸(ふきのと)集落へつながる舗装道路から、旧鍵の戸橋への廃道を下ると、苔むした石組の橋台の跡が見えてくる。橋台の直下は狭隘な滝の落ち口となり、落差6、7mほどの滝がある。恐る恐る川岸の崖の際まで身を乗り出して覗くと、暗緑色の淵が見えた。

吹の戸への途中、鍵の戸橋の橋台跡の石垣が残る

椎葉と結ぶ塩の道である向霧立越(那須往還)が、緑川を渡る地点は2ヵ所あったとされている。ひとつは、囲(かこい)集落(旧矢部町菅)下の「鮎の瀬」の浅瀬。もうひとつが、汗見(あせみ)集落(旧清和村木原谷)を経て、鍵の戸で緑川右岸へ渡るコースである。
汗見でこんな話しを聞いた。「牛や馬を引いた椎葉からの駄賃付(運送業者)は、汗見から木原谷に出て、鍵の戸で川を渡り、浜町(旧矢部町)まで行った」。
駄賃付たちは、九州脊梁の尾根道をたどり、椎葉から山の産物を運んでいた。浜町(山都町)にたどり着くと、今度は塩や醤油などの調味料、酒、米、日用品を牛や馬の背に積み、再び尾根道を椎葉に帰った。
戦後、鍵の戸には木造の鍵の戸橋が架かり、汗見・木原谷と浜町を結ぶ馬車道として利用されていたが、「だいぶ昔に腐れて落ちてしまった」という。
駄賃付のコースをたどるように、吹の戸から緑川を離れ、丘陵地帯を登ると、空は大きく広がる。棚田の縁ではキケマンの花が咲き始めていた。

陽当たりのよい棚田の脇にキケマンの花が咲いていた

鴨猪川と失われた山の暮らし

緑川支流内大臣川とともに戦前から大規模な森林開発が行われたのが、鴨猪(かもしし)川である。
内大臣川沿いに敷設された森林軌道は、国見岳(標高1739m)手前の広河原(ひろこうら)まで延びていたが、途中の角上(かくあげ)で鴨猪谷支線が分岐していた。
鴨猪谷支線は昭和元年(1926)に開設。角上から内大臣川右岸を下流側に向かって斜めに登り、稜線を越えて鴨猪谷に入っていた。最終的には総延長14,752mに及び、宮崎県境の三方山(標高1578m)直下まで延びていた。

前日の雨で笹濁りとなった鴨猪川

鴨猪谷支線が稜線を越える位置には中尾集落があった。20年前に訪れた時には、一軒の廃屋が残り、裏手には墓石群とともに氏神様の祠が新築されていた。さらに、中尾集落から緩やかな尾根を登った地点には大平集落があったが、人家跡の石組みだけが残り、あたりは植林地となっている。
昭和55年3月、緑川流域最大の開発拠点であった矢部営林署内大臣事業所が閉鎖。それに先立つ昭和42年には、鴨猪谷支線が廃止されており、鴨猪谷での営林事業も終焉を迎える。同じ時期、大平、中尾からも人の姿が消え、山の暮らしも失われることになる。
梅雨開けの8月、鴨猪川を訪れた。囲(かこい)集落を抜けて鴨猪林道に入ると、菅(すげ)、白糸、浜町、下名連石(しもなれいし)を見渡す高台に出る。さらに、谷奥へと向かうと、中尾集落跡へ繋がる作業林道が右手に分かれる。その林道も鴨猪林道も、かつての鴨猪谷支線軌道跡を広げて設けられたものである。
その日、鴨猪川は前日の大雨で笹濁りとなっていた。しかし、鴨猪林道をさらに奥まで入ると、陽当たりのよい斜面でコオニユリの花が風に揺れていた。

鴨猪林道沿いに咲くコオニユリの花

五家荘西の岩川とオウレンの謎

五家荘(八代市泉町)仁田尾の渓谷で不思議なものを見た。スギの植林地に挟まれて、シロモジやイタヤカエデ、ヒナウチワカエデ、フサザクラ、イヌシデ、カツラなどの広葉樹が茂った斜面であった。猫の爪のような実を同心円状に付け、実の下に緑の葉が展開している。植物図鑑で調べると、キクバオウレンであった。

広葉樹に囲まれた西の岩川の流れ

キクバオウレンは、深山の林内に生える常緑多年草で、乾燥させた根(黄連)を漢方薬として使う。苦味健胃、整腸、止瀉等の作用がある。分布は北海道・本州・四国とされ、本来九州には自生していないとされる。

西の岩川で見たオウレン

西の岩川上流の谷内集落で朝日(わさび)峠のことを聞いた。明治35年大日本帝国陸地測量部発行5万分の1地図『原町』では、西の岩川源頭に「瀧首」の地名が記されている。ところが、昭和31年国土地理院発行5万分の1地図『砥用』では「ワサビ」とされ、さらに平成11年国土地理院発行2万5千分の1地図『葉木』では「朝日峠」となっている。
かつて、西の岩川上流域の人たちは、八代市泉町の中心地柿迫との往来に朝日峠を利用したが、峠から北へ伸びる尾根にも原町(旧砥用町中心地)につながる山道があった。
谷内集落で朝日峠の昔話を聞くうちに、オウレンの話題となった。「50年ほど昔、特産林産品として五家荘でオウレンの栽培が推奨された」という。製薬会社が乾燥根を買い取るということであった。当時、オウレンだけでなく、トチバニンジン(竹節人参)やキハダ(黄檗)も導入された。西の岩川渓谷で見たのは、林産品として栽培されていたオウレンの子孫であった。

深水川と走水の滝の巨大マダラ

球磨川と深水(ふかみ)川の合流点に架かる川口橋のたもとから河原に降りると、浅瀬に2本の丸太を渡した木橋が架けられていた。

深水川に架けられた丸木橋

深水川沿いの県道は、集落の奥で支流走水(はしりみず)川を右に見下ろすように登り始める。さらには走水川の源流を越え、五木村山口に繋がる。その途中に「走水の滝」(別名白滝)がある。ここには、巨大マダラ(ヤマメ)伝説が残る。
伝説のあらましは次のようである。「孫与巳(まごよみ)という人物が走水の滝の上で釣りを楽しんでいた。あまりの気持ちの良さに、ついうたた寝をしていると紅い大きなマダラが、深いツボキ(渕)の泡の中から、花が咲いたように浮き上がり、釣り針をくわえ、勢いよくツボキの中に身をひるがえしてしまった」。孫与巳は、渕の中に吸い込まれてしまい、後にはわらじだけが残された。それ以来、滝上の渕は「孫与巳渕」と呼ばれるようになった。

走水の滝

落差100mを超す魚止めの滝の上流に、なぜ大ヤマメがいたのか。魚止めの滝を越えてヤマメやイワナが生息している事例は、全国各地に見られるという。職業釣り師による人為的な放流のほか、大洪水時に魚類が分水嶺を越え移動したケース、河川争奪(隣接する河川で一方の浸食力が極端に強い場合、奪う側の河川の源頭が上流へ浸食して分水嶺を移動させ、隣接河川の上流域をすべて奪う)による源流域の変化などが考えられている。
「走水の滝」を遠望しながら、五木村山口で聞いた話を思い出した。「小学生のころ父親の運転するオートバイの後ろにしがみついて峠を越え、深水から八代の町までお盆の買い物に行ったことがある」という。山人たちが行き来した峠を、かつて大ヤマメも越えたのだろうか。

30年ぶりに再訪した壮絶の木浦谷

久しぶり訪れた木浦谷は、昔の面影が残っていた。木浦谷は、耳川支流の十根川(宮崎県椎葉村)の源流である。
30年前、木浦谷に入渓したのは、木浦谷の支流そごう谷を遡行して扇山(標高1661m)山頂をめざすためである。前夜、木浦橋のたもとにテントを張り、翌朝夜明けとともにそごう谷を登った。メンバーは4人。なるべく荷物を軽くするために、食料と寝袋だけを背負った。木浦谷本流ではなく、支流沢のそごう谷を遡行したのは、本流中段に険悪な大滝があると聞いていたからである。

木浦谷でヤマメを探ってみた

そごう谷には、高巻きするような悪所はなかったが、小滝が次々と現れ、滝の乗り越えでへとへとになった。結果的には、10時間ほどかけて霧立越(きりたちごえ)の主稜線に這い上がった。目的地の扇山小屋までは、さらにスズタケの茂った縦走路を1時間ほどヤブコギすることになった。
30年ぶりに木浦橋のたもとにやって来てみると、右岸の一部が伐採されている以外は、昔とさほど変わらぬ印象であった。沢沿いの斜面には、サイゴクミツバツツジが点在し、ヤマザクラも花期を迎えていた。足元では、コスミレが群落をつくっている。
木浦谷で知人が浅い淵をいくつか探ってみた。エサは、ミミズ、カワムシ、ヒラコ虫の3種をかわるがわる試した。流速のある淵ではアタリはみられないものの、木浦橋下の深目の淵では、どのエサでも頻繁にヤマメのアタリがあった。
そのうち、太陽が霧立越の稜線の上に顔をのぞかせ、山風が吹き始めた。空を見上げると、あたり一面を覆っていたイヌシデの新葉がかすかに風にそよいでいた。

木浦谷では3種のエサを試してみた

楮木川と鍋割峠のサツマイナモリ

球磨川沿いの国道219号から、球磨村楮木(かじき)集落への自動車道を登ると、道は一気に高度を上げ、楮木川は視界から消えてしまう。
楮木から谷奥の川島集落までは、およそ6km。川島に近づくにつれて谷が広がり、山肌にはスギ、ヒノキの植林地が増えてくる。道沿いにスギの伐採地があり、車を止めて谷を見下ろすと石垣を築いて水田が開かれている。その先に楮木川の清流が見えた。
棚田の石垣の切れ目から河原に降り、ようやく楮木川の流れと出会うことができた。両岸を覆う樹林に遮られて水面は暗い。水量は想像していたよりも多かった。谷底は平坦である。

二次林の中を流れる楮木川

川島は、山の南斜面に50戸ほどの人家がかたまり、集落の最も高いところには、廃校となった小学校校舎と体育館が建っていた。
神瀬小学校川島分校が廃校となったのは、平成16年のこと。中学校は遠く、戦後しばらくまで、川島の子どもたちは鍋割峠を歩いて越え、球磨村の中心地一勝地まで通っていた。通学には片道3時間かかったという。
川島で昔の思い出を聞いた。「鍋割峠を越える時には、朝5時に家を出ていた。自動車道が整備されるまでは、家を新築する時も大変だった。瓦を人吉から貨車に乗せ肥薩線の瀬戸石駅で降ろし、渡し船で球磨川対岸の楮木に運び、それから人の背で川島まで運んできた」という。
かつて、川島の子どもたちが歩いていたという鍋割峠の山道も、現在は舗装道路となっている。自動車で鍋割峠まで登ると、道沿いの暗がりにサツマイナモリの白い花が点々と咲いていた。

鍋割峠に咲くサツマイナモリの花

緑川源流黒岩谷と森の霊気

緑川源流(山都町)黒岩谷は、幾度となく沢登りで訪れた思い出の谷である。谷の名は沢を詰め上がった岩峰黒岩(標高1582m)からついたとされる。
ヤマメ釣りは初体験という知人と舞岳(まいたけ)集落の山の神に安全祈願をしてから、国有林内を進んだ。緑川源流域は、戦後の大官山林道の開削によって急激に森林開発が進んだ。「大官山」とは、「広大な国有林」という意味である。大官山林道最奥の集落となった舞岳の山の神も、山仕事の安全を願って設けられたものである。

大官山舞岳の山の神様

梅雨明けの大官山林道は、落石もあり荒れ気味である。緑川の最源流に近づくにつれて、スギ・ヒノキの植林地から自然林へと変化する。緑一色の林道沿いでは、リョウブとノリウツギの白い花が目立った。
入溪した黒岩谷は盛夏らしく濃緑のトンネルの中にあった。林道橋から左岸の踏み跡を辿り、砂防堰堤脇を越えて源頭を目指した。両岸はカツラやイヌシデ、フサザクラ、サワグルミ、チドリノキなどの落葉広葉樹で埋め尽くされる。木々に覆われて、空を仰ぎ見ることもできない。
しばらくは流木の溜まった平坦な流れとなるが、すぐに右岸から段々滝が合流し、その奥からはヤマメの潜む小淵が連続する。しかし、緑のボリュームに圧倒され、竿を出すのも忘れてしまう。ただ、森の霊気に触れ茫然と佇むだけである。

緑に覆われた黒岩谷源流

馬見原五ヶ瀬川と竿渡村ノ瀧

滝上(山都町馬見原)集落のはずれからジュラルミン製の梯子階段を下り切ると、巨岩が累々と重なる川岸に出た。巨岩帯を抜けると平坦な杉の植林地となり、川に沿って石垣が築かれている。植林地を抜けると、五ヶ瀬川の川岸である。点々と横たわる大岩の間を抜けて上流へ向かうと、正面に竿渡(さわたり)滝の姿が見えた。容易に人が近づけない幻の滝である。
滝壺は巨大な円形だが、せせらぎの音がどこからも響いて来ないのは、水の動きがほとんど見られないためである。巨大な岩壁に取り囲まれたすり鉢状の空間を冬枯れの樹林帯が取り囲み、滝壺には落ち葉が漂っている。

静寂の中の竿渡村ノ滝

竿渡滝は、細川藩8代藩主細川斉茲(なりしげ)公のお抱え絵師、矢野良勝と衛藤良行が描いた『領内名勝図巻』に「竿渡村ノ瀧」として登場する。図巻では「高さ十六間半 幅三間程 瀧坪三反余」とされ、水量豊かに描かれている。現在は上流の馬見原に発電用の取水堰堤が設けられているため、流れ落ちる滝水の幅は、図巻と比べるとかなり狭く、水量も少なくなっている。

馬見原の旭化成取水堰堤

「竿渡」の名は、滝壺からの流れが竿をさして渡れるほどゆるやかだからとされる。確かに、図巻には竿で川底を探りながら渡る人の姿が描かれている。
地元で滝のことを尋ねると「昔は滝壺の対岸に1軒だけ人家があった。川岸の石垣は水田の跡だ」と教えてくれた。
梯子階段を登り馬見原まで戻った。馬見原橋を渡ると、曇り空の下で五ヶ瀬川のせせらぎの音がかすかに響いてきた。

椎葉谷川と落葉に埋もれたワサビ田

九州脊梁(中央山地)に点在する「椎葉」(しいば)の地名には、共通の意味があるのだろうか。耳川上流の宮崎県椎葉村が、最もよく知られているが、熊本県側においても、球磨川と川辺川に「椎葉」の地名が点在する。
球磨川本流では、球磨郡水上村小川内(おごうち)川最上流に椎葉の地名があり、川辺川流域では、球磨郡相良村椎葉とともに五木村平沢津谷上流の椎葉が知られている。さらに、川辺川を遡った五家荘(八代市泉町)には、椎原(しいばる)の地名が見られる。このほか宮崎県西都市の一ツ瀬川流域尾八重(おはえ)にも大椎葉(おおしいば)の地名が残る。「しい・ば」とは「しひる」という崩壊地や痩せ地を意味する言葉から来ているともされる。
10数年ぶりに訪れた相良村椎葉の風景は、さほど変わっていないように感じた。国道445号から分かれ、椎葉谷川沿いに上流へ向かうと椎葉集落である。集落で、地元で取り組んでいたワサビ栽培のことを聞いた。「5戸で組合をつくって、谷の上流にワサビ田を開いた。数年続けたが、大水で泥が流れ込んでワサビ田が埋ってしまい、今ではやめている」という。

自然林の中の椎葉谷川

記憶を頼りに、谷沿いの車道を上流へ辿ると、谷が急に狭まり、落葉樹混じりの照葉樹の森となる。上流へ向かうにつれて、両岸の傾斜が険しくなり、小滝が次々と現れる。谷の奥はやや広がり、そこにワサビ田の跡らしい石組が見えた。だが、青々としたワサビ葉に覆われていたワサビ田はすっかり落ち葉に埋まり、今では渓流の風景に融け込んでいた。

土砂に埋もれた椎葉谷のワサビ田

平沢津谷と「しんぼうどうざん」

栗木(八代市泉町)で聞いた五木村平沢津(ひらさわつ)の「しんぼうどうざん」の話が耳に残っていた。「しんぼうどうざん」とは、一体なにか。
梅雨に入ってすぐ、子別峠(こべっとう)を越えて平沢津谷に入渓した。急斜面を雑木につかまり、滑り落ちるようにして川岸まで下った。流れは意外とやさしいが、しばらく遡行すると、突然岩壁に挟まれた淵や小滝が現れる。

小滝や小渕が連続する平沢津谷

平沢津谷からの帰り、上流の椎葉集落で、「しんぼうどうざん」を知る老人と出会った。老人によると「しんぼうどうざん」とは新望銅山のことだという。
新望銅山は昭和9年に株式会社として発足。旧深田村(現あさぎり町)の岩屋銅山を高田商会(戦前の大手商社)から引き継いだ。そして、昭和13年からは平沢津谷でも採掘を開始、昭和17年か18年ごろまで存続したとされる。
平沢津谷の新望銅山には、鉱山事務所、社宅、飯場があり、椎葉集落にまだ電気が来ていない時代に、宮園(五木村)から電気を引いていた。「事務所前の広場で活動写真が映写されることがあって、地元の者も見に行ったことがある」という。
当時、椎葉集落の人たちも臨時の鉱夫として働くことがあったが、「朝鮮半島から来た人夫や女性の選鉱婦がたくさんいた。坑内は人が立って歩けるほどの広さで、発破にマイトを使っていた」。
削岩機で掘った鉱石はトロッコで搬出し、索道で尾根を越えて栗木に運んだ。さらに、瀬戸内海の四阪(しさか)島(愛媛県今治市)や契(ちぎり)島(広島県大崎上島町)まで運び、精錬していたとされる。
老人に聞いて、銅山跡地まで辿ってみた。土砂で埋まった鉱口の周りではウツギの白い花が満開となっていた。

新望鉱山跡に咲くウツギの花